過ぎし日を

 

小田急線で多摩川を越え神奈川県側に入ると最初の駅名は登戸である。近くに明治大学の生田キャンパスがあり、緑豊かな生田緑地の坂をいつも学生たちが賑やかに行き来する。第二次世界大戦当時、現在の大学の敷地は全て大日本帝国陸軍軍事工場であった。通称「登戸研究所」と呼ばれる場所である。

当時ここで風船爆弾、中国にばら撒かれた大量の偽札の製造、化学兵器、毒物の研究などが秘密裏に進められていた。信じたくない七三一部隊の蛮行もこの研究所と無縁ではないと聞く。現在、日本の負の遺産として当時の建物を利用した資料館が一般に公開されている。

それ以外にも大学構内にはいくつかの当時の記憶の場所が残されている。動物慰霊の名目で、公にできない実験で犠牲になった人たちも供養するという「動物慰霊碑」旧陸軍所縁の「弥心神社」そしてその境内に立つ「登戸研究所跡碑」である。

碑の裏に一句が刻まれている。

過ぎし日をこの丘に立ちめぐり逢う 元研究所員

季語も持たぬこの十七文字の俳句の優劣はわからない。ただ、この場所でこの文字を目にした時、衝撃と悲哀と言い知れぬ戦慄、それに言いようのない複雑な思いが胸を走った。

昭和六十三年、この碑が建てられる時、元研究所員たちが俳句を持ち寄り、その中の一句を刻んだものだそうである。戦後時を経て、ここに集った人々はどのような思いであったろうか。それが痛みであれ誇りであれ、ずしりと重い句ではあった。

弥心神社を下ると、隔てた道の向こうには学生たちの明るいざわめきがあった。五十年も昔に、ここにあった重い塊を若者たちは今どのように受け止めているのだろう。聞いてみたかった。