天智天皇 (六二六~六七二)

海神(わたつみ)の豊旗雲に入日さし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)さやけかりこそ

(大海原に旗のようにたなびく雲に、今しも沈む夕日が射している、今宵の月夜はまさしく爽やかに澄んでいることだろう)

雄大で堂々たる響きが好きだ。「豊旗雲(とよはたぐも)」は吹き流しのように横に広がる雲のことだが、この魅力ある名前の第二句により、荘重な美しさが深まり、格調は一段と高まっている。「海神」は本来、海の神を意味するが、ここでは海と解釈されている。

後の天智天皇である中大兄皇子は、唐と新羅に攻められた百済を救済するため大軍を派遣した。その際九州の筑紫国から出陣する船団を前に、航行の安全を祈り必勝を祈念した歌なのである。天智天皇はこのとき三十六歳であった。

天智天皇は舒明(じょめい)天皇の皇子で、母は斉明天皇である。大海人皇子は同母弟で、子に持統天皇や志貴皇子らがいる。

六四五年藤原鎌足とともにクーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害した(乙巳(いっし)の変)。皇子が自ら剣をとり、宮中で入鹿の首をはねたのだから、よほど勇猛な皇子だったのだろう。蘇我氏は仏教を奨励して勢力を伸ばし、政治を専断して自ら天皇の地位を狙おうとしていたのだ。つまり、この反乱は、皇統を守り、同時に神道派の主権回復を目指したという見方ができる。