その後、中大兄皇子は田地や民を天皇のものにする公地公民制や班田収授法などの制度改革を進め、律令国家の基礎を造った。これを「大化の改新」と呼び、わが国の最初の年号「大化」を制定した。日本が中国の冊封体制から離れて自立自尊の独立国であると明確に宣言したのである。

さらに、六六一年百済救援のため二万人もの兵を新羅に派遣したが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、百済は滅亡した。その後、天智天皇は六六七年飛鳥から近江大津宮に遷都し、即位、四十九歳で崩御した。御製と伝わるのは四首のみだが、日本の根本を築いた偉大な天皇であり、掲出歌のような名歌の作者である天智天皇が本書の冒頭を飾ることは当然のことである。

朝倉や木の丸(まろ)殿に我がおれば名のりをしつつ行くは誰(た)が子ぞ

(朝倉の丸木造りの御殿に私がいると、名を告げては通り過ぎて行くのはどこの者だ)

この歌も九州筑紫国の朝倉にある斉明天皇の行宮で詠われた。天智天皇は皇太子として軍を指揮していたのである。「木の丸殿」は粗木で作った粗末な御殿という意味である。「名のり」とは宿直(とのい)の官人が自分の姓名を自ら名乗り、その上で定めの部署に着くことで、「対面名(なだいめん)」と呼ばれていた。

声調が大らかで素朴な感じがする歌である。「誰が子ぞ」というあたりに豪族の子息への親しみが表れており、帝王らしい雰囲気が感じられる。

小倉百人一首

秋の田のかりほの庵の苫(とま)をあらみわが衣手は露にぬれつつ

(秋の田んぼの脇にある仮小屋に泊まると、屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてしまったよ)