(5)ぼちぼちかなと思うとき

60歳前後から、知人の訃報に接することが多くなった。それが80以上の方だと、ああお亡くなりになったかと平静に受け止められる。70代の方だと、少し早いなと感じ、自分と同じ60代だと、他人事とは思えず何故お亡くなりになったかを知りたくなる。それより若い方の死は、この本の趣旨からしても論外であり、いけないことである。

他人のことは、このように勝手な受け取り方ができても、自分のこととなると話が違う。死神から、あなたの命のろうそくは明日消えることになっていますよと急に言われて、準備のできている人はいない。「行く末」のあらましが想定できるようになっても、自分の急死というシナリオは含まれていないのである。

老い支度、死に支度がほぼできて、いつ死んでもいいと思って生きている人でも、自分の人生が本当に今日で終わるとは信じていない。その証拠に、数日先、数週間先、場合によっては数年先の予定をちゃんと持っている。何歳であっても、今がとりあえず健康な人の場合、死の瞬間は、常に突然の出来事となる。

突然の出来事であってもいいように、昨今は死に支度用に「エンディングノート」というものが書店に並んでいる。 " ぼちぼち "かなと思われている方は、一度手にとって見られればいい。

また、就職活動を就活と呼ぶのにかけてʻ終活ʼなる言葉も幅を利かせている。不勉強ながら、何をするのが終活かは存じ上げない。

ぼちぼちかなと思ったとき、何をするのがいいのだろう。いくつかの「エンディングノート」のページをめくってみると、大体同じような項目が並んでいる。

【前回の記事を読む】老人を表現する言葉が多くなってきているのは、元気で多様な活動をする老人が増えてきているという証拠でもある。

 

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