次姉の話では、地震のとき仲間とはぐれて道路に座り込んでいたところ、近くの農家のおばさんが次姉を背負って逃げてくれたのだそうです。
液状化で道路が波打ち、足の悪い次姉が歩ける状態ではなかったようです。幸い、校舎には被害がなく、次姉はすぐに新潟に戻っていきました。
上の姉は直江津高校、私は直江津中学、父は長野に近い安塚小学校、そして母は名立よりもっと南にある能生小学校へ通う日々が続いていました。
新しい環境に慣れるのにそれぞれ苦労があったと思いますが、母が一番大変だったのではないかと今になって感じています。
帰りの電車に乗り遅れると一時間以上待たなければならず、困った母は、「国道に出て、トラックの運転手さんに手を挙げて乗せてもらって帰ってきた!」と言っていました。
そして、家に帰ればすぐ食事の支度。終われば学校の残務整理。いらいらするのも仕方なかったのでしょうが、元来の性格も加わりいつ怒り出すか分からない母の様子に、父も姉も私もピリピリしていました。
テレビで物語が始まると、「こんな作り話、なんの役にも立たん!」と言ってテレビのスイッチをパチンと切ってしまうし(そのため私は、クラスメートとのテレビの話題についていけず)、ちょっとくつろいでいると、
「さっさと勉強しない!(しなさい!) お母さんの頃は“ねじり鉢巻き”で夜中まで勉強したもんだ!」と自慢話が始まり、余計やる気を失くすのでした。
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