【前回の記事を読む】「決勝に残ったのよ!」通過者が書かれた名簿に私の名前が…!制服なし、原稿ミス、ドタバタ劇の果てに訪れた結末とは?

新潟での日々

直江津と私

直江津の駅舎も二十年ほど前に大改装され、裏口からもエレベータで楽に行き来できるようになりました。

静かだった住宅地にも新しいお店や病院が建ち並び、温泉つき老人マンションまでできて、以前の東雲町とは思えないほどの変わりようです。

ばい煙を吐いていた機関庫(蒸気機関車の倉庫)も撤去され、洗濯物が黒くなることもなくなりました。

今は父も母も亡くなり、家も壊されてしまいましたが、直江津は私にとって、多感な時代を過ごした大切な故郷です。

これからも父母のお墓参りをしながら親戚や友人に会えることを楽しみに、直江津に行き続けられたらと思っています。

東京での日々

大学を受験したものの……

高校生活もまもなく終わるというのに、私の進路はまだ決まっていませんでした。上の姉は地元の短期大学を卒業し、教職資格を取って教師への道を進んでいましたが、私は母への反発からか、「教師には絶対なるものか!」と思っていました。

なりたくてもなれる職業ではないのに、何と傲慢な考えをしていたことかと恥ずかしくなりますが、高校時代の私は将来への夢もなく、「その日暮らしの高校生」でした(と言っても、学校では楽しく過ごしていましたが)。

クラスで仲良しだった友達は、看護学校、音楽学校、地元の会社へ就職と、それぞれ進路を決めていたのに、私は目標もないまま東京の大学を受験することにしました。けれども、勉強もしないで受かるわけがありません。いくつか受けたものの、すべて“不合格”。

東京山手線の電車に乗って、「どうしよう。母に何と報告したらいいんだろう……」と、ぼんやり車内を眺めていると、“〇〇テレビ技術学校”という専門学校のポスターが目に留まりました。読み進めていくと、アナウンス科もあるとのこと。

「これだ! これこそまさに神様の思し召し!」と心に衝撃が走りました。

実は私は、高校三年生のとき参加した“全国放送コンテスト”で入賞したのをきっかけに、「アナウンサーになれたらいいな……」という淡い夢を抱いていたのです。でも、そんな大それたことを誰にも言えず、心の奥にしまい込んでいたのでした。

急いで専門学校の電話番号を書き留め、電車を降り公衆電話から電話をすると、「はい、まだ募集していますよ」との返事。「ありがとうございます! またあとでお電話します!」と電話を切り、「これで、母に顔向けができる!」と喜び勇んで母に電話をすると、思いがけなく母の反対に遭いました。