典子は白薔薇の列に視線をつないだ。ふと正面の(レーシー・レディ)が目に入った。開いた外弁の幾つかに赤い染みのようなものがついていた。中心の白い花冠は中から光が洩れるようにふっくらと巻いているだけに、その染みは余計に目立った。決して気にするほどの汚れではなかったが、しばらく迷った後に、典子は指でそれを摘み取った。
今朝も五時前に起床すると典子は手早く化粧(主に日焼け止めを塗るほどだが)を済ますと、いつものように庭に降り立った。
夏至に向かうこの五月、四時過ぎにはもう空が白み始める。日が昇る頃から二時間ほどが至福の時なのだ。
天気のいい日ならば薄明の中に射し初(そ)む一条の光を合図に、新しい朝が驚くべき速さで展開していく。ひっそりとしていた大気が陽の色を含み、次々と薔薇たちが目覚めていく。
株の周りに沈んでいた香りが、揺らめきながら渾然と立ってくる。濃いダマスクの香りからフルーツやティーの香りなど、まるでパフュームのテスティングのように、庭中が香りに包まれていく。
滅多にある事ではないけれど、これまで数度、体験した事がある。水平線の上に雲が厚く籠(こ)める早朝のこと、中に閉じ込められている光が雲の具合で、真横に吹き出してくる。上空の雲間から下方に放射してくる光を「ヤコブの階段」とか、「天使のはしご」とか呼ぶのは知っているけれど、水平に射してくる光は何と呼ぶのだろうか。
真横からの光は椎などの梢を抜け幾条もの矢となって庭に届いてくる。薔薇の上側に光が当たり、濃い葉叢(むら)と夜の名残の闇が作る陰翳(いんえい)の中に、幾つもの―― とりわけ白や黄薔薇の花冠が浮かび上がっていく。光にすくわれるかのように。言葉は浮かばない。体が感覚になる。ほんの数秒、刹那と言うほどの時間なのだが、典子は息をしていなかった事に気付く。
太陽は赤く焼けた火の色から数分の内に、もう直視できないまでに輝き昇っていき、光は精緻に組み合った花弁の内部にまで隅なく透過していく。
典子はただ溜息の中で見つめる。
【前回の記事を読む】まだ着いたばかりなのに、今にも帰るような話になってしまったのを悲しく思った。
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