薔薇のしるべ

(再会)

しかし今、それは冷たい刃(やいば)のように典子の耳に触れていった。

俯けていた顔を恐る恐る上げた。

「泊まっていかれるのだもの」と、平静を装って続けた。「お話しする時間は沢山あるわ」この日をずうっと切望していたはずなのに、話したい事は山ほどあるのに、しかし心の中にはそれを怖れる典子がいた。

「またとない機会ではあるわ、深い話を伺うには」茉莉は口元に薄い笑みを浮かべた。

「そういう事なら連絡を入れておかなくては」とスーツケースの上に載せたボストンバッグに手を伸ばした。ジッパーを開けて中からスマートフォンを取り出した。 

 

一体どういう事なのか要領を得ないまま典子は置かれているスーツケースに目を落とした。

―― 泊まるつもりではなかった―― という事なのだろうか? 連絡を取っている相手は誰なのだろうか? 慣れた手つきでスマートフォンを操作する茉莉を、遠いものを見る思いで典子は見ていた。

「何か持ちましょうか?」バッグのジッパーを閉じ、顔を向けた茉莉に典子は言った。

「ここは傾斜地なので、荷物を上げるのが一苦労なの」

「それじゃ、これお願いするわ」茉莉は手に持ちかけたボストンバッグをぐっと典子に向けた。典子は両腕を伸ばし、それを抱くように下から受けた。

よく使いこまれたレザーのバッグ、ずっしりとした重みが伝わった。

「ここの階段ではなく向こう側のアプローチからの方がいいわ」と典子は、先に立って茉莉をいざなった。

岬の僅かな平地を切り開いた敷地は車道より険しく上がっているが、東側の方はなだらかな傾斜で上に続いている。法面が高く道からは家の上部しか見えないが、やがて右手上に薔薇の庭が迫り上がるように目に入ってくる。

後ろのキャスターの音に合わせる歩調で上がってきた典子は、アプローチに入る手前で足を止めた。さっと目を走らせる限り、目立つほどの退色もなく、どの薔薇も輝いていた。

マリを迎えるのにまだまだ十分なのだ、と思えた。後ろを見ると茉莉は目を薔薇庭の方に向けて上がってきていた。つと、顔を典子に上げた。何も言わずに茉莉はしばらく典子に目を向けていた。けれどもそこには、典子が密かに期待したような、感動やそれに類するような色は表れなかった。

「このアプローチが上の庭に続いていくの」

典子は茉莉が上がってくるのを待って言った。  

「荷物がある時は、こっちの方が楽だし、それに……」と言った後に少しはにかんで続けた。

「ここから入るのが、薔薇が一番美しいの」茉莉はちらっと典子の方に目を向けた。

「少し咲き進んだものもあるけれど、まだ見頃のものが多いわ」

「そう、それは楽しみだわ。私がここに誘われた訳も思い出したわ」その言い方は皮肉めいてはいたが典子には十分だった。