第1章
典子の庭
家のテラス近くから歩道までの東側の地形は全体が緩やかに傾斜し下っている。全面高麗芝だけだった庭を花壇に改造する時、典子はそこに父の時にはなかった道を付けてもらった。一つは園芸に必要な資材、肥料や堆肥を運ぶ為ではあったが、もう一つはそこを薔薇の小道にする為だった。
S字形の緩やかなカーブで上っていく三十メートルほどのアプローチができ上がった。その工事と併行してその両側に、レンガで組んだ花壇を付けてもらった。
そこには華やかさと気品を備えた薔薇、ハイブリット・ティー(HT)と呼ばれる剣弁(けんべん)や丸弁の高芯(こうしん)咲き、大輪の薔薇を主に選んでいた。品位や風格という言葉を薔薇に当てはめるなら、HTは最もそれにふさわしいものを備えていると思われた。HTに総じて言える事は、それらが一つひとつ誇らしく花首を上げている事だった。
テラスや庭へと続くアプローチには、いわば正装し、襟を正したようなHTこそが、人を迎えるのにふさわしい薔薇、と典子は思っている。
初めは、(乾杯(かんぱい))や(イングリッド・バーグマン)などの赤系。(プリンセス・ドゥ・モナコ)や(芳純(ほうじゅん))などのピンクのまとまりの次は(ホワイトクリスマス)などの白のグループ。その後には(インカ)といった鮮やかな黄薔薇。アプローチの最後は(ブルームーン)などの藤色(青系)の薔薇、などを植え込んでいた。
それらは定番と言われるものばかりだったが、長い薔薇の歴史の中で評価の定まったものと言えた。初心者に過ぎなかった典子には、剪定など試行錯誤の連続だったが七年目となるこの春は、HTならではの華麗な薔薇の小径になっている。
アプローチを幾らか上がって、ふと我に返るように足を緩めた。不自然なほど早足になっているのに気付いた。まるで茉莉から逃げるように来てしまった。先に行って周りを片付けたいと思ったのは本当だったが、それだけではなかった。
アプローチの上がり口で後ろから来る茉莉を待っていた僅かな間、それまで心の平静を保ってきた糸が、今にも切れてしまいそうな不安が走った。
アプローチを一緒に歩きたいと思った。薔薇の話をし、茉莉からすぐにもその感想を訊きたいと思った。この日をどれほど切望してきた事だろうか。しかし心の一方にはそれを怖れる典子がいた。想いの溢れるままに話し出したらやがては堰が切れるように、固く誓った事までも押し流してしまうに違いなかった。