【前回の記事を読む】あんなに一緒だったのに。月日が二人を分かち、別人のように見えてしまうほど残酷に時は経ってしまった。
第1章
典子の庭
「とても丁寧に薔薇を見てくれていたわ」と、典子は茉莉に目を戻して言った。茉莉は無言のままだったが、典子に向いていた瞳が上目に揺れた。
「きっと笑われると思うけれど…」、一瞬言い惑った後に続けた。
「こんな嬉しい事、本当に現実なのか……まだ半分、夢の中にいるようなの」
少しして茉莉から低い声が洩れた。
「それは私も同じよ」
目元に苦笑のような笑みをにじませている。
「不思議の国のアリスになった気持ちだわよ」
にべもない口調で言うと、張った目を向けた。
「兎の穴ではなく……薔薇園に迷い込んだ」とゆっくりと茉莉は続けると、おどけとも揶揄とも取れる笑みを浮かべた。
典子はどう返せばいいかわからず、笑みを作ろうとした目を瞬(まばた)かせた。しばらく典子を見つめていた後で、茉莉はアプローチから隣の花壇の方に体を回した。
「バラと言っても、ほんの少しだろうと思っていたのよ」、茉莉は、ぼそっと言った。
「バラは、私を呼ぶ為の口実なのだろうと。それが溺れるほどのバラの数で、正直、面食らったという事よ」
そう続けた茉莉の表情に変化はなかったけれど、その声が、かすかにハスキーがかるのを典子は聞き落とさなかった。それは茉莉が瞬時であっても心の内を見せた、という証だった。
随分親しくなって互いの打ち明け話もするようになったある時、「生来の自分の声はひどい嗄(しゃが)れ声なのだ」 とマリは打ち明けた。それをボイストレーニングで克服したのだ、と。
「みんなが聞いているのは……私の演技の声」
「演技の声? 私と話す時も?」
「ええ、今はそれが私の声だもの」
マリはそう言って、瞳の奥を悪戯(いたずら)っぽく揺らめかせた。しかし二人だけで話している時は、よくマリの言う、地声が混じる事があった。
風邪で喉を傷めた時のような擦れた声。やがてそれはマリの心が揺れている時や、本心を繕わずにさらけている時に限って、洩れるのだという事に気付いた。
「嬉しいわ! 何と言ったらいいの!」
典子は茉莉の言葉に両手を握り合わせた。