―カリヨンを鳴らしているのか。
ユーリはあんぐりとした。日課としてここにあがり、そのたびに鐘もカリヨンもなくなってしまったことを虚しく確認しているのかと気の毒に感じていたが、なんだ、そういうことか。手はきちんとその動きを覚え、耳にはいつもどおりの音が鳴り響いているかのように、カーシャはちゃんと鐘を鳴らしていたのだ。
取り越し苦労を笑ってしまえば、急に自分の尺度がとても窮屈で形式ばっているように感じられた。この心はどうしていつもがんじがらめになろうとするのか。ユーリは眩しい思いでカーシャの動きを眺めた。
―いいなあ、お前は。自由で……。
緩やかにしならせた背の動き、伸ばした白い喉元の突起とくぼみが美しかった。恍惚として見えない鐘を打ち鳴らし、風に流れていく沈黙の音に耳を傾ける彼の表情を見ていると、ユーリもうっとりと彼の世界に引きこまれていく。
不意に甘美な幻影が脳裡(のうり)をかすめた。
カーシャの顔がゆっくりとこちらを向く。口元に微かな笑みを浮かべて、あの魅力的な菫色の視線がまっすぐ彼の目を射抜いた。カーシャは空中を漂っている一つの音を片方の手で捕まえると、そっと唇づける。すると彼の手の中でそれは見る見る光まばゆい水の玉に変わっていった。
さあ、お取りと手を伸ばして差し出されたそれを、ユーリはひざまずき、瑞々しい果実に吸い付くように口にふくもうとした。
まさにその瞬間、塔の下で車のドアが閉まる音がした。ユーリはとたんに我に返り、美しい幻影もかき消された。
【前回の記事を読む】見覚えのない巾着袋。開けてみれば、札束が二つ。―あの2人がかなりの金を巻き上げていたことは知っている。これだけあれば…
次回更新は11月19日(火)、21時の予定です。