茂平と多江が何事かと仕事をやめて飛んできた。多江はすぐに初音を抱きかかえて初音を落ち着かせようとしてくれた。
「大丈夫。怖がることはないよ」茂平は手に鎌を持っていたが、その柄の部分で蛇の背をやさしくなでると、蛇はするすると逃げていった。そして、初音の頭をなでながらにっこりと微笑んだ。
「あれはいい蛇だ。こちらからいたずらせねば、噛んで毒を出したりはせぬ。蛇も大切な命だ。いいね」
幼い初音にも、生き物を大切にする茂平の気持ちが伝わった。
甲賀の男の子たちは、刀、槍、弓などの武芸を中心に忍具、薬草や火薬の知識などを学んだ。この指導には、主に引退した忍びや怪我を負った者が当たっていた。
女の子の場合は、歩き巫女(みこ)となる者もいたが、多くは各武家に女中や下女として忍び込まされた。男の子のように刀や槍などの本格的な武芸は学ばなくて良かった。女の子が訓練を受ける武術としては、吹き矢、吹き針、仕込み扇子・簪(かんざし)による攻撃が主なものであった。
初音は、甲賀の山や谷を走り回るのが好きだった。男の子の中に入り、刀や槍、弓、馬など一緒に訓練を受けた。いまではこのことが良かったと思っている。くノ一としては特別の訓練があり、くノ一は必ず女として男を籠絡(ろうらく)する技を身につけねばならない。
それをここの頭(かしら)といわれる人や老忍たちを相手に仕込まれるのである。仲の良かった娘が、そんな訓練を受ける姿を間近で見てきた。いま侍女として佐和山城に送り込まれている蓮実もそのような訓練をこの里で受けていた。
それは初音には堪えがたいことだった。よそからやってきた蓮実であったが、年上の美しい蓮実は初音にとって特別の存在であった。
佐和山の城の門前に至った。城の門番も薬売りの初音とは薬をもらったりしてすっかり顔見知りとなっており、警戒が厳しいいまの折でも城内に入ることが許され、いつも通り蓮実からの密書を受け取ることができた。密書を受け取ると、初音は佐和山の城下から陸路甲賀へと向かった。
初音たちは望月家に属しているが、当主と顔を合わせることはほとんどなく、直接の上役として飯道山の麓に居を構える善実坊が彼らを束ねていた。
善実坊は、元は山伏であり全国を行脚していたが、脚を悪くしたことからいまはこの忍び屋敷で望月家の忍びを差配していた。四十代で中肉中背であるが、元山伏らしく厳めしい顔つきをしていた。
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