忍びの者
一
いま薬華庵の小者たちは、甲賀の里の望月家との連絡に当たっていた。太一 (たいち)、十蔵 (じゅうぞう)、初音(はつね)といった十代の半ばを過ぎた歳の甲賀の忍びである。
甲賀は、織田信長が本能寺で明智光秀の謀反で落命した後、豊臣秀吉に従ったが、天正十三年(一五八五)に雑賀(さいか)の太田城の水攻めの際、堤工事の不具合を口実に甲賀武士の家は改易処分された。そして秀吉は水口(みなくち)岡山に城を築き、中村一氏 (かずうじ)、増田長盛、長束正家(なつかまさいえ)の三代十五年間に亘り、甲賀の監視に当たらせた。
このような甲賀の窮状に対して、家康は米を与えるなどの支援をした。このため甲賀衆はそれぞれの家ごとに各地の大名家に雇われることになるが、多くは徳川家か家康の息のかかった大名家に仕えた。
二
いまその薬華庵から一人の薬売り姿の娘が佐和山へと旅立った。女忍びの初音である。佐和山城に侍女として送り込まれた蓮実(はすみ)という甲賀の忍びがいる。蓮実は、いまや石田三成付きの『蓮実の局』と呼ばれるほど三成の寵愛を受けているが、その甲賀のくノ一・蓮実との繋ぎである。特に三成挙兵に関する最新の情報を得るのが目的である。
初音は大津までは陸路を歩き、大津の漁師小屋の甲賀者・繋ぎの伝兵衛(でんべえ)に琵琶湖を舟で、佐和山城下まで運んでもらった。繋ぎの伝兵衛は魞漁(えりりょう)の腕のいい漁師であり船頭でもあるという表の顔を持ち、風貌も色黒で漁師そのものの如き忍びであった。
初音はこの湖が好きだった。農家の口減らしで三歳の頃この湖を渡った。物心がつくかどうかという歳だったからか、そのときの薄ぼんやりとした悲しみが、この大きな湖を渡る興奮でいくらかかき消されたことを覚えている。
甲賀の里では、ほかにも孤児や捨て子が集められていた。初音が預けられたのが、茂平(もへい)と多江(たえ)という子のいない三十代の夫婦であった。杉谷の山裾の田んぼの近くに家というか小屋があり、普段は農業をやっていた。
初音はこの夫婦にかわいがられて育った。夫婦は、午前中は近くにある田んぼで働く。幼い初音は近くの畔(あぜ)に座って二人の働く姿を見ていた。あるとき一匹の蛇が初音の足元にいた。赤い舌をちろちろと出している。初音は怖くて身動きができなかった。こらえきれなくて、泣き出してしまった。