はっきりと自分の過去が現在に影響していると感じられるのは、「オレの若いころはこうだった……」と言い出す40代後半から50代か。その世代は、公私ともに多忙な30代を走り抜け、少し減速したころと重なる。
50代後半にもなると、現在に少なからず影響している過去と、ほぼ等距離に意識できる将来に向き合うことになる。そのとき「行く末」を現在の延長線上にイメージするのが一般的であるが、60代以降を定年後の余生と見るか、リセットされた新しい20~30年の人生と見るかで、「行く末」の輝きが変わってくる。
ちょっと昔は、エネルギッシュな老人を'色ぼけ'とか'欲ぼけ'と揶揄していた。最近は、社会的にも少し前向きにとらえられているようで、ハマっている、あるいは取り組んでいる活動内容を意味して、'育爺(孫の教育)'、'ボラ爺(ボランティア活動)'、'スタ爺(習い事(スタディ))'などの言葉が使われている。
勿論、昔ながらの'エロ爺'や、ちょい悪オヤジの年長版で'チャラ爺'なるものもある。これらには、ʻ婆ʼも勿論あるが、'エロ婆'や'チャラ婆'は、少ないかもしれない。
このように老人を表現する言葉が多くなってきているのは、老人の総人口の増加も勿論であるが、元気で、多様な活動をする老人が増えてきているという証拠でもある。行く末に何を目指そうが、受け入れてくれる下地は、社会にできつつある。
あらためて、「来し方行く末」を、私たちはどのような思いでとらえるのだろうか。「来し方」、すなわち生を受けて現在の年齢まで過ごしてきた時間であるが、幼年、小学生、中学生、高校生、それ以後は人により学業を続けたり仕事に就いたりと道が分かれ、さらに様々な道筋を歩いて今に至る。
ぼんやりとでいいから、道筋を幼年期から順繰りに、どんなことがあったか、
どんな気持ちでいたかを、なぞるように思い出してみよう。我慢強い人でも、きっと30分も続かない。記憶の引き出しを順番に開けていく作業は、結構疲れる。
また、意外といろいろなことを覚えているものだという驚きも感じる。当然のことであるが、思い出の量は均等ではない。まるで、昨日のことのように鮮明な情景が浮かぶこともあれば、この時期何を考えてどう過ごしていたのかよく思い出せないという薄い記憶のときもある。
そしてこの作業で最もおもしろいことは、そのときの感情まで蘇ることである。しかし、その感情は、角がとれて丸くなっている。理不尽なことへの怒り、出会いや成功の喜び、別れや失敗の苦しさ、などなど、たとえば当時は死のうとまで思った感情も、熟成した丸みを帯びていれば思い出しても痛くない。
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