先の、国語の例を参照すれば明らかなように、自分が伝えたいこと、訴えたいこと等を、音を操って自由自在に表現するために、欲しい声をどうやって得たらよいか──そこで歌唱が必要になるし、声だけで不足であれば手を叩くとか足踏みをする、それでもほしい音が得られないとなれば、道具、すなわち楽器が必要になる(この逆に、楽器で行えない表現のために声が必要になることもあります)──その様々な方法を知るために鑑賞をする、というわけです。

こうした仕組みに気づいていくためには、各教科を分離的に見ないで、子どもたちのお勉強の仕組みや、何のためのお勉強かということを考えていくことが鍵になります。音楽が得意な先生が、歌い方や楽器の演奏法の技能を教えてあげる、授けてあげる、ということ自体に留まることは、教育としては不十分であるといえます。

従来、〈1-2〉で述べたように、「歌を歌えば歌唱であり、楽器を演奏すれば器楽、レコード(CD)で音楽を聴けば鑑賞、といった印象」で、それらの活動(行為)を行ってさえいれば音楽の授業が行われたような気がしていたところですが、ここまで述べたような事柄に配慮されていたといえるでしょうか。

こうした背景には、音楽科教育の歴史(明治以来、鑑賞の組み込まれる昭和16年の国民学校が始まる以前の約70年もの間は歌唱(教科名は「唱歌」)が中心で、徐々に鑑賞、そして器楽が追加されていったような経緯)が影響していることが分かります注3)が、もはや、〈1-5〉で述べてきたような第9次学習指導要領に至って以降は、そろそろ脱却していかねばならないのではないかと思われます。

そう考えると、当然、歌ったり楽器を演奏したりということに留まる音楽の授業では、教育としては物足りないということであるといえますし、子どもたちにも、学校でお勉強する意味が実感されにくいということになるのではないでしょうか。