第3章 音楽のお勉強は何のため──歌唱の授業を例に
3-2 評価の観点の話
──「関心・意欲・態度」から評価の4つ(3つ)の観点
教科書に掲載されている楽曲等の範唱CDを、「聴きなさい」と言わずとも、子どもたちが「聴かせて!」と言ってくれる。さらに聴き取る力も養われる。そんな展開にするにはどんな方法があるでしょう。
こんなエピソード1があります。
小さな学校の職員室で、私が漢字ドリルの丸つけをしていると、大柄な男性教師が、顔を紅潮させて音楽室から戻ってきた。
「いやあ、すごいもんだ、『とんび』、終わらないよ!」
「? ……どういう意味さ?」
彼の言葉の意味がよく分からず訊き返すと、
「軽く歌って終わりかな、と思ったら、子どもらが『もっと聴かせて!』って言って、結局また次回、続きをやることになっちゃったんだよ」
彼はとても明るく活気あふれる人物で、いつも元気な声が学校中に響き渡っている青年教師である。しかし、新卒以来10年近く、彼は音楽の授業に強く苦手意識を持ち、音楽の時間になると抜け殻のようになってしまっていた。その時間だけ、まるで別人のようになってしまうのを、私も目撃したことがある。
しかし、彼が音楽を嫌いかといえば、全くそうではなく、カラオケのあるスナック等では常にヒーロー、人気者となってしまうのであった。ダンスをしてもセンスは抜群の彼。
……実は、彼が苦手なのは、音楽教師だったのである。音楽を専攻した教師に、歌唱や器楽、鑑賞や楽典の学習についての指導法の“あまりに素人レベル”な質問をすると、返ってくる答えに彼はいつも傷ついた。
そして彼は思った。……“高級な楽しみ”は、そういう世界の人がやればいい。
──「山頂は何の支えもなく、宙に浮いているのではない。それは、地上にただ置かれているのでもない。それは際立った作動の一つとしての地球そのものである」2とあるように、本来、生活と芸術とが連続的な存在であるはずの音楽に壁が存在しているのは紛れもない事実である3。
壁とは、「芸術を崇高なもの、自分のような一般人とは関係ないと思う感覚」である。そして、本来は存在しないはずの壁を作ってしまう原因として挙げたいのは、双方に内在する「不完全な自己」である。
「オレ、ピアノ弾けないし、ベートーベンとかって分からないし、もう、別に知ろうとも思わないし」と、他の教科に関しては一切そういった後ろ向きの発言をしない彼が口走った。……よほど傷ついているのだろうな、と、私は悲しくなった。
「あのさ、範唱用のCDあるでしょ?」
「もちろんありますよ、あれがないと、俺ピアノ弾けないから」と、彼はCDを手に苦笑いした。
「それ一つで、熱中するし、力もつく授業ができるぞ。何より、子どもの姿勢が変わる」
子どもは、聴きたいと思わなければ聴かない、ということに着目して行われた、彼の授業の情景4は次の通りである。