「不登校・登校拒否の歴史とともに生きてこられた」ともいえる佐藤氏でさえ、最終的に不登校(登校拒否)を〝病気〟と捉えていない。病気ならその個人を治療すればいいが、そうでないなら問題の要因は個人を超えたところにあることになる。

それでは、佐藤氏の指摘する「主体的な自己主張」はどこから生まれたのか。

私事化としての「不登校」

それに対して明確な見解を示したのが、森田洋司氏の『「不登校」現象の社会学』(一九九一年、学文社)である。

森田氏の視点は斬新だった。それまで「登校拒否」(「不登校」)研究の定番であった「なぜ学校に来られないか」という視点ではなく、「なぜ大半の子は登校できているのか」という視点で分析した。

その結果、学校には「不登校予備軍(グレーゾーン)」が存在していることを明らかにし、その原因を社会の<私事化>に求めた。

この著を読めば、「不登校」が個人の問題ではなく、学校に対するまなざしが相対化された結果として起こった、まさしく社会的な「現象」であることが理解できる。

森田氏は、私事化について次のように述べている。

「……他人が私事に土足で踏みこんでくる煩わしさから逃れようとする人びとの動きであり、自分を犠牲にしてまで企業や集団に尽くすことはそろそろほどほどにし、私生活の隅々まで丸ごと呑み込まれることがないように人間関係や組織に対して適度な距離を置きつつ自分の私的な領域(「ワタクシゴト」の世界)を確保したいという人びとの欲求の現われでもある。」(森田、一九九一年、二一三頁)

 

バブルが崩壊してから、〝努力〟〝勤勉〟〝まじめ〟という価値についての相対化に拍車がかかった。

家庭をも顧みず、会社のために全身全霊まじめに働いても、いとも簡単にリストラの憂き目にあうようになった。人々は、いままで疑わなかったこれらの価値に疑念を抱くようになる。

そして、そうした大人の苦悩を身近に見てきた若者は、仕事よりも個人の生活を優先したいと考えるようになる。中学生も「このまままじめに勉強して、本当に報われるだろうか」と感じるようになっていく。

こうして学校の絶対性は次第に弱まり、不登校の要因の一つとなっていく。このように考えてくると、不登校生徒を「ひ弱くなった」と決めつけるのは勘違いも甚だしいということがわかるだろう。

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