四 相対化の正体
―学校相対化の中で生徒をどう理解するか―
(1)生徒を理解するとは
この段階がまだ「他者理解」は観察者側の「憶測」の域を出ないのは、観察者が自分の体験から自身の中に構築してきた、“泣く”ということへの意味づけや、“いじめ”に対する意味づけによって相手の意味づけを、自分(教員)の意味関連の中で推測しているにすぎないからだ。
シュッツのいう「純粋の他者理解」は、相手の主観的な意味連関(何層にも重なっている意味づけとそれらの連関)のありようを理解するところまで達しないと成立しない。
相手と十分なコミュニケーションを取って、相互に共有される領域を確認した上でなければ、真に相手の主観的な「意味づけ」と、その連関は理解できないのである。
だから、物理的にも精神的にも距離を置いたままでは、相手を「純粋」に理解することはできない。
これをクリアした「主観的意味連関における理解」を「純粋の他者理解」と定義しているのである。
つまり、なぜそのような行動をしたかを教員側の経験や憶測、過去の経験から「この生徒はこういうタイプに違いない」とカテゴライズする段階では、真の理解とはならず、日々変化する生徒との間の意識のずれは日に日に大きくなっていくということだ。
シュッツの主張に従えば、多くの生徒と出会ってきた経験のある教員ほど、目の前にいる生徒が「もしかしたら、いままでに出会ったことのないタイプの生徒かもしれない」という慎重かつ誠実な姿勢が求められるのである。
経験が豊富なほどさまざまな生徒への対応の仕方を多く持っている。しかし、経験からつくられた生徒像は硬直化しやすい。