四 相対化の正体
―学校相対化の中で生徒をどう理解するか―

(2)不登校の正体

私事化としての「不登校」

子どもが「ひ弱」になったという教員は、以下に示す森田氏の指摘をどう受け止めるのだろう。

「今の子どもたちは、ふとしたことがきっかけとなって『不登校』に陥ったり、もっともな理由が見当たらないままにずるずると学校を休んだりする傾向が目立ってきているといわれている。これを『ひ弱くなった』という言葉だけで片付けてしまうのはあまりにも皮相的な解釈である。むしろ問題は、わずかなことによって切れてしまうほどに脆い子供たちと学校社会とのつながり方にある。勉強のつまづき、教師との関係の行き違い、級友との葛藤など不登校の理由としてあげられるものは、弱まった絆にかかるわずかな力にすぎない。学校や教師は、子供たちが『ひ弱くなった』と歎く前に、子どもたちにどのような学校生活を提供し、子ども達を学校社会へとつなぎとめようとしているのかを改めて問い直してみる必要がある。」

(森田洋司(一九九一年)『「不登校」現象の社会学』学文社、二六三頁)

根本的な問題は、学校が「子どもたちにどのような学校生活を提供し、子ども達を学校社会へとつなぎとめようとしているのか」ということである。決して生徒個人の問題ではない。

また、私事化傾向を自分勝手だとか、わがままだという一面的な解釈をしてしまうと、生徒はいよいよわからなくなる。私事化には、以下に示すような肯定的な意味も含まれることも理解しておく必要がある。

私事化の肯定的な側面について、森田氏は社会学者片桐雅隆氏の研究を踏まえて以下のように示している。

「……現代社会に生きる人間が、家族や友人との交わりや趣味の世界や、ときには現実から離れた仮構の世界を、自分にとって最も意味のある世界とみなし、そこに充実感や自己実現の場を求めようとする現象として現れるというのである。」

(森田洋司(一九九一年)『「不登校」現象の社会学』学文社、二一六頁)

提供される学校生活が、社会の中に広がっている私事化傾向を視野に入れたものでなければ、どんなに懸命に子どもと関わろうとしても上滑りするだけだろう。学校は登校する必然性を積極的に高めなければならない。

例えば、子どもたちが「学校は楽しい」「授業がよくわかる」などと感じていれば、それが登校の必然性となる。また、学校に会いたい人がいれば、それも必然性の一つになるだろう。その逆のことが起こったとき、生徒は学校に行くべき必然性や意義を失ってしまう。

私たちが不登校問題というときの"問題"は、子どもの側にあるのではない。学校のあり方の"問題"なのだ。消極的な必然性しか準備できないなら、不登校はますます増えるだろう。

このように、学校に生徒を引きつける力が弱くなれば登校の必然性も弱くなる。それを生徒個人の"弱さ"と見るのは見当違いである。こうした社会的な要因を踏まえない教員の姿勢が不登校を生み出す一つのきっかけになっている。