そして、その瞬間を経験した生徒には「あのときは確かにわかってもらえた」といった経験が蓄積される。

それは、生徒の中にある教員という「類型」に変化をもたらし、その変化は大人という「類型」や、他者という「類型」にも影響を与える。

人は信じるに値するのだという意味が、さまざまな「類型」に書き込まれる。

ただ、生徒が「わかってくれた」と思う感覚は長続きするとは限らない。

次の日には友達からその教員の悪い噂を聞いたりして揺らいでしまうかもしれない。そうなると生徒は「わかろうとしてくれている」と感じていた教員に疑念を持つことになる。

このように、生徒の教員に対する主観的意味連関は日々変化する。変化し続けるものを完全に理解するのは理論上不可能である。

しかし、互いに「わかり合えた」という瞬間が確かに存在したという事実は消えない。

私たちは生徒を完全に理解することを目指す必要はない。むしろ、そんなことができると誤解してはならない。

私たちが生徒理解で目指すべき地点は、生徒が「この先生は全力で自分のことをわかろうとしてくれている」と感じる瞬間なのだ。

つまり、生徒理解のゴールを教員が決めることはできないということだ。あくまでも決めるのは生徒なのだ。

よく、教育相談では児童生徒の声を受容・傾聴する「共感的理解」が重要だとされる。

しかし、理解しようとするベクトルが教員から生徒への一方向でしかないなら、結局は教師が生徒を判断しているに過ぎず、主体が教員側にあるという意味で「客観的理解」を超えるものとはならない。

意外に思われるかもしれないが、生徒理解の主体はあくまでも生徒の側にあるのだ。

真面目な教員ほど生徒を完全に理解できるゴールがどこかにあると勘違いし、生徒の問題行動に対して「どうしてもっと理解してやれなかったのだろう」と自分を責める。

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