過去の生徒を分類し、保存してできあがった「類型」(パソコンのフォルダのようなもの)を絶えず更新し続けなければ、固定的な「類型」だけを頼りに生徒を判断するしかない。

そして、目の前の生徒が自分のどの「類型」にも当てはまらないとき「どうしようもない生徒」として見限ってしまう。

本当は、理解できないと感じる生徒との出会いこそが「類型」を更新したり増やしたりするチャンスなのだが、残念ながら多くの教員は年齢や経験を重ねるほどに「類型」の硬直化が進んでしまう。

逆に経験の浅い若い教員が、生徒の心をつかむことがある。彼らは経験が少ない分、その生徒が何を考えて行動しているのかを懸命に理解しようとする。

それは、その若い教員が生徒という「類型」を懸命に増やそうとしている姿であり、その姿勢が生徒に伝わることで、生徒は安心して自分のさまざまな意味づけを若い教員に自ら伝えようとするのである。

そうした相互作用の上に立って生徒理解は成立するのであって、単に、年齢が近いからではない。

以上のことを踏まえれば、生徒理解とは、以下のような流れで成立することになる。

教員が自らの臆見(おっけん)(思い込み)を一旦取り除いて、生徒を可能な限りありのままに見ようとする姿勢を持つ。

そして、何とか理解しようとしてさまざまなアプローチ(声掛け、面談など)を試みる。それは「私は、あなたのことを何とかして理解しようとしている」ということを伝えることである。

生徒はその姿勢を見て「この先生は、自分のことをわかろうとしてくれる」または、「わかってくれた」と感じる。

その瞬間が生徒理解なのである。