はじめに

これまで、多くの方が司馬さんについて話したり書かれたりしています。曰く、気遣いの人だった、やさしい人だった、人蕩しだったなどです。多くは自分自身の体験からそのように話されているので、事実であることは間違いがないのですが、私はしばらくすると、なぜかこれらに不満を覚えるようになったのです。

なぜなら、司馬さんはなぜ気遣いの人だったのか、なぜやさしかったのか、なぜ人蕩しと呼ばれるようになったのか、という疑問に誰も答えてくれなかったからです。まだまだ、司馬さんへの疑問はあります。

なぜ中学時代に全蔵書読破をしようと考えたのか、なぜ『二十一世紀に生きる君たちへ』を世界の子どもたちに読んでもらおうと考えたのかという疑問です。

これらの疑問の答えにこそ、司馬さんの謎を解く鍵があるのではないかと思い至りました。私はこのような数々の疑問を意識するようになって改めて、司馬さんの人生に一歩踏み込んで考えるようになり、司馬さんがなし遂げてきたことの本当の意味や理由を考えるようになったのです。

司馬さんが個人的な部分に他人を踏み込ませなかったのは、司馬さんに何か世間に知られてはマズイことがあったわけではないということは、すでに和田さんも書かれています。

すべては、他人が無自覚なまま、土足で大切な個人的な部分までを汚すのを守ろうとしただけなのです。たとえば、御母堂や御家族の話がほとんどないのもそのためでした。

なお、司馬さんをどのように表記するかと悩んだのですが、私は司馬さんから数回お葉書をいただいただけで、お会いしたことも、お声を直接聞いたこともありませんが、あつかましいことながら、一番書きなれている「司馬さん」と表記させていただくことにしました。