全昌寺 汐越の松
この寺に一足先に宿泊した曽良が、後に残した芭蕉を案じて、句を残していた。
終宵(夜もすがら)秋風聞くやうらの山
天龍寺・永平寺
ここまで、北枝は熱心に、芭蕉について回り、道々作句の指導を仰いでいた。北枝は旅の最後まで、芭蕉について行くつもりであった。しかし、芭蕉はここで強いて北枝を帰してしまう。別れの名残りに扇を引き裂いて与えた。
物書きて扇引さく余波(なごり)かな
芭蕉は、兼ねてから、是非逢ってみたい人がいた。しかも、独りでこころゆくまで。等栽である。
等栽
…爰に等栽と云古き隠士有。いずれの年にか、江戸に来り予を尋。遥十とせ余り也。いかに老さらばひて有にや。将死けるやと人に、尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。
市中ひそかに引入りて、あやしの小家に、夕貌・へちまのはえかかりて鶏頭・はは木ぎに戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと門を扣けば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものの方にゆきぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。
かれが妻たるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かかる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等裁も共に送らむと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立つ。
客用の枕のなくて、木の根を拾ってきて枕にしたと、ものの本にある。しかも、二夜とまる。一句も無し。そして此の浮かれ様。この旅の中で、一番芭蕉が満足した場面ではなかろうか。自分を風羅坊と定義づけていた芭蕉の望んでいた生涯の形であったのかも。
【前回の記事を読む】「後年提唱の〝かるみ〟と〝あたらしみ〟の発想」松尾芭蕉が生み出す「かるみ」の表現