第一部 夢は枯野をかけめぐる
江戸新芭蕉庵
関ヶ原後九十二年、徳川幕府の平和のもと世に言う元禄繚乱の時代、武家から町人まで、カルチャーブーム最盛期であった。
毎日のように続く俳席は、本来芭蕉が目指す俳諧の真髄とは逆の方向の、点取りゲームに流れて行く。元禄六年、五十歳、彦根藩士森川許六が入門。その時の許六の句
十団子も小粒になりぬ秋の風
「予が腸を探り得たる…」と絶賛。許六は文武六芸の免許取得者。芭蕉は許六を〝絵の師〟と公言していた。
許六が彦根へ帰るにあたりあたえた手紙に、「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆に逆らひて用ゐるところなし。…古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよと、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅もまたこれに同じと云ひて、燈をかかげて、柴門の外に送りて別るるのみ」とある。
この頃になって、一度は離脱したはずの、浮世のしがらみが、纏いつくことになる。猶子の桃印の最期を看取り、かつて内縁関係も想像できる寿貞尼の介護と、情の深い芭蕉にとって、手の抜けない毎日が続く。
元禄六年盆の時期に、芭蕉は健康上の理由を上げ、一時芭蕉庵の門を閉じた。「閉関の辞」に「色は君子の悪む所にして佛も五戒のはじめに置けりといへども、さすがに捨てがたき情け…人くれば無用の弁…」中身については明らかではない。
芭蕉にとっては、内外共に焦躁と苦悩に満ちたこの時期、後世に判明するが、芭蕉提唱の〝かるみ〟の種が蒔かれ、後世おおいなる稔りをもたらす苗床となっていた。