寿貞尼の訃報がとどく。六月二日死亡。次郎兵衛は江戸へ帰す。
数ならぬ身となおもいそ玉祭り
七月十五日(お盆)実家へ帰る。墓参。
家はみな杖に白髪の墓参
芭蕉の在郷を歓迎し、連日歌仙が巻かれた。しかし、新しい提案の〝かるみ〟の理解を得ることは困難であった。去来宛て書簡で「いまだかるみに移りかね、しぶしぶ散々の句のみ出候」
九月八日大坂(大阪)へと出発。付き添いは支考・素牛、帰ってきた次郎兵衛。途中奈良に一泊。
ぴいと啼尻声かなし夜ルの声菊の香や奈良には古き佛達
この道や行く人なしに秋の暮
九月九日大坂着。洒堂亭に一泊。一門と会う。十日夕方より、芭蕉に健康上の異変が発生した。風邪が酷くなり、二十日まで、寝たきりの状態となる。その枕頭、洒堂と之道との話し合いは、和解にする気配がない。
二十三日土芳への手紙に「ここもとおっつけ立ち申すべく候。長居無益がましく存じ候て草々看板破り申すべく候。…とかく事やかましく存じ候て、もはや飽き果てそうろう」。解決のないまま、各派の行事が芭蕉を待っている。
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