「猿蓑」出版時前後に門下生となり、日夜強烈な〝かるみ〟について薫陶をうけた、まだ名もなかった新人達、支考・野坡・惟然である。
彼等は芭蕉の死後数年経って、四国・中国・九州・北陸と行脚し、〝かるみ〟を基調とした俳諧普及に献身した。支考の金沢での、女流俳人加賀千代を育てた功績も大きい。
朝顔につるべ取られてもらひ水 千代
芭蕉終の旅
元禄七年五月十一日(芭蕉五十一歳)年初に弟子で能筆家の柏木素龍に清書させた「おくのほそ道」を懐に入れ、寿貞の長男次郎兵衛を供に、再び上方への旅に発つ。
この時既に、芭蕉は体調不十分であった。前途に不安感が強かったように感じる。別れに、次の句を残している。
麦の穂を便りにつかむ別かな
麦の穂のようなか細いものを、杖と頼むに似た、心細い気持ちですと言う意味か。弟子達も、師の体調に不安感が強く、川崎まで見送りについてきた。曽良は小田原まで見送ってきた。その不安感は結果的には、的中する事となる。
この旅は、かねてより、弟子の酒堂から仲間の之道との紛糾の訴えがあり、その仲介が目標の一つであった。途次、名古屋では、離反の噂のあった荷兮・野水と会う。その足で、ふるさとへ寄ったのは、五月二十八日。暫く滞在。
旧暦五月二十二日、京の去来の落柿舎に着く。集まって来る連中と盛んに歌仙を巻く。落柿舎は前年改築され、日頃貧しい生活の弟子達は、家主の去来のもてなしにより、酒に歌仙に陶酔した。
こうした間にも、芭蕉は、「炭俵」を出版、「続猿蓑」の最終的な編集を完了する。「続猿蓑」の編集は支考が担当し、「炭俵」は野坡が編集担当となった。〝かるみ〟で育った弟子達である。