第一部 夢は枯野をかけめぐる
生い立ち
芭蕉は、一六四四年伊賀上野に、松尾与左衛門の次男として生まれた。生家は、松尾姓を称しているが、武家でなく、実態は決して豊かではない百姓であった。母の出自は、百地氏と言われている。
十歳中頃に、伊賀上野の藤堂良精の嗣子で、二歳年上の、藤堂良忠に仕えた。この良忠が蝉吟と号する俳諧人で、その連中に加えられ俳諧の道に入ったと言われている。その当時の句の一例
杜若にたりやにたり水の影
この藤堂家は、藤堂氏の侍大将という大家であるから、貧しい百姓の子の芭蕉が、いきなりそのお伽衆として仕えたとは考えられず、以下推測になるが、藩立の学問所がまだなく (一八二〇年に習書寮創立) 寺子屋のような所で、藩士の子弟も領民の子も、読み書きに机を並べて勉強したと思われる。
藤堂家の下屋敷が芭蕉の生家の近くであったこと、苗字が許された家柄であることから、そういう機会があっても不思議ではない。芭蕉の人並み外れた、感性、才能を、蝉吟がほれ込み、のちに、蝉吟元服の頃、個人的な勉強の相方として、抜擢したのではないか。
名目上は、賄方とか言われているが、実質的には、読み書きの相方として、また、俳句の師北村季吟への連絡役とか。この時期の、猛勉強が、芭蕉人生の基礎を作った。
この季吟(一六二五年 ―一七〇五年)という人は、俳諧は勿論、古典文学、芸能に関する造詣が深く、『源氏物語湖月抄』ほか、古典文芸全般について、多くの著書がある。晩年には、将軍綱吉により、幕府初代歌学方に登用されるほど、社会的地位もあった。
季吟の周辺には、古典文芸に関する書物の山があり、日常の話題も、それらに関するものが多かったと推測できる。芭蕉の教養は、この時代、この生まれ育った環境からすれば、信じられないほど広い。
良忠という良い上司を得、季吟という良い指導者を得、おそらく、主人以上の熱心さで勉強した成果と思われる。身辺に書物を積んでという身分ではなく、記憶力と、耳学問という手法も使って。藤堂良忠が死亡(没年二十五歳)し、芭蕉は二十三歳で職を失ったが、その後もなんらかの形で、北村季吟に指導を受け続けた。
この季吟との接触を続けたことが、芭蕉の、俳諧のみならず、古典文学・和歌・能・茶道、中国の詩歌にまで及ぶ知識を身につけることを可能にした。この接触を可能にした要因の一つに、藤堂家と季吟との、文化的交流をつなぐ連絡役として働いていた形跡が見てとれる。