藤堂家退身後も季吟門下生として、〝伊賀上野宗春〟の名で、季吟主宰の「続山井」に三十余句入集するまでになっている。但し、この期間の公的な個人的な生活記録は無い。

寛文十二年(二十九歳)正月二十五日、宗房(芭蕉)は自作処女作の文集「貝おほひ」を生家裏庭の「釣月軒」にて完成。伊賀上野天満宮に奉納している。「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」と記されている。

釣月庵とは、単なる作業小屋でなく、読み書きが出来る空間であったと考えられ、多分、芭蕉の父の建てたもので、日常の農作業のあいまに、書物を読み、思考を廻らしていたのではなかろうか。

だとすれば、芭蕉がそのような父の素質を受け継ぎ、父はこの次男に将来の望みを託し、幼児より学業の支援をおしまなかったと推測出来る。芭蕉という天才児が突然に生まれたと考えるより、この方が納得できる。

延宝二年(一六七四年)三月、三十一歳のときに北村季吟より「俳諧埋木」という秘伝を伝授された。連歌俳諧の秘伝書で、現代の大学卒業免状に相当する。ここに至って、俳諧で身を立てる意欲を得て、新天地江戸へ東下の決心をする。

東下

北村季吟から「俳諧埋木」の秘伝を受けた芭蕉は、それを踏台にして、江戸入りをしたと思われる。

この時より俳号を〝宗房〟より〝桃青〟と改め、伊勢出身の俳諧師〝高野幽山〟の執事となった。

延宝五年三十四歳で独立、万句興行を成功させ、新進気鋭の若手宗匠として注目されるに至った。門弟の数も二十名を数え、その中には、後年、蕉門十傑と言われる、其角、嵐雪、そして芭蕉に終生財政的後援を惜しまなかった杉風がいた。

また、この時期に、神田上水工事の住居兼事務所を、上水取り入れ口近くに設けている。

その跡は、後年、その地で俳句の指導を受けたという弟子によって再建され、現在も東京都の史跡として指定され、〝史跡関口芭蕉庵保存会〟によって保存されている。

同庵には、芭蕉翁と、高弟の其角・嵐雪・去来・丈草の像が安置されている。芭蕉像は芭蕉三十三回忌に、嵐雪・去来・丈草は一八六二年に、其角像は一九三二年に設置され、全て現存している。蕉風立ち上げにあれだけ功績のあった其角像作成が昭和の時代まで遅れたのは、晩年に蕉風逸脱とみなされる時代があったからではないか。

※本記事は、2023年9月刊行の書籍『夢は枯野をかけめぐる 風羅坊・松尾芭蕉』(幻冬舎ルネッサンス)より一部を抜粋し、再編集したものです。