第一部  夢は枯野をかけめぐる

おくのほそ道」の旅

敦賀
種の浜

…浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、感に堪り。

寂しさや須磨にかちたる浜の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵

大垣

路通も此みなとまで出むかひて、みのの国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たり合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、

蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

大垣藩士の戸田如水は、この時の芭蕉を「心底計り難けれど、浮世を安くみなし、諂(へつら)はず、奢らざる有様なり」と評している。

「おくのほそ道」については、曽良の「旅日記」のように、関所・ことば・習慣・旅先で出会う人々の態度、これらを取り入れて、普通の紀行文にすれば、五倍長編の面白い旅物語になったかもしれない。

しかし芭蕉は、書かないで済むものは全て省略し、推敲に推敲をかさね、全文を詩にしてしまった。文章の隅々まで研ぎ澄まされ詩になっている。大吟醸酒が、米を二割になるまで、研ぎ削いで醸造するように。

「おくのほそ道」が完成したのは、元禄七年一月、弟子で能筆家の柏木素龍によって清書された。その五年間、芭蕉は推敲に推敲をかさねていた。