猿蓑 京都、湖南時代

「おくのほそ道」の旅を終えて、芭蕉は、江戸へは帰らず、そのまま、伊勢神宮を参拝し、生家のある伊賀上野に立ち寄り、その年の内に、故郷を離れ、去来の落柿舎、歳末は、膳所の幻住庵に移った。この時、故郷の上野の山中で、寒さにふるえる野猿をみて生まれたのが、この句である。

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

そのまま、元禄四年九月まで二年間、京・近江を転々としながら、去来・丈草・凡兆等と風雅を楽しみつつ、一年半かけて、新しい時代の旗揚げとして、全国より作品を募集し、入句人数一一八人 四二二句の「猿蓑」を出版した。蕉風俳諧の門出である。

この頃から、「おくのほそ道」の後半で意識したものを"かるみ"という言葉で表現し、生涯後半のテーマとした。日本古来の、"わび"に立ちながら、日常身辺で心に浮かぶものを、やさしい言葉遣いで、表現しようという発想である。

この方向で作句出来たのは、新弟子にもかかわらず、天才的な急成長を見せた凡兆である。猿蓑巻一〜巻四では、芭蕉四十句の入集に対し、四十一句入集させている。しかも、その内容は、今吾々の時代にも通用する出来映えである。

芭蕉にとっては、この湖南時代が、風流に明け暮れた、生涯最も充実した、幸せな時代ではなかったか。また、後に蕉風を継承する去来・凡兆・丈草といった人材とともに、芭蕉の目指す俳諧のあり方について、研鑽工夫を重ねた。

また支考など、"かるみ"という発想の洗礼を、最初から受けて育つ弟子も出て来た。別の言い方をすれば、よく学び、よく遊んだ時代である。智月尼という熱心な後援者も得た。

この時代の芭蕉の句のうちから。

あられせば網代の氷魚を煮て出さん

木のもとに汁も膾も桜かな

四方より花吹入れよにほの波

行春を近江の人とおしみける

曙はまだむらさきにほととぎす (石山寺紫式部)

ほたる見や船頭酔ておぼつかな

頓て死ぬけしきは見えず蝉の声白髪ぬく枕の下やきりぎりす