Ⅰ 歴史的概観

3.古典期(前479〜前336年)

ペルシア戦争でのペルシア人に対する勝利(マラトンの戦いやサラミスの海戦の勝利)は、ギリシア人に大きな印象を与え、その後何世紀にもわたって、自分たちや「バルバロイ(野蛮人)」に対する見方を決定づけました。

そして、デルフィの青銅製三脚記念碑のように、彼らの成功を称える記念碑が相次いで建てられました。

前477年、アテネは「デロス同盟」(エーゲ海の周辺の諸ポリスが、ペルシアの来襲に備えて、アテネを盟主として結んだ同盟)を結成することで、アテネ帝国の第一歩を踏み出しました。

アテネ帝国の成功の鍵は、アテネ人の漕ぎ手が乗り込む三段櫂船(かいせん)(古代の軍船)の連合艦隊にあり、ピレウスの港やスニオン岬には今もその船着場の跡が残されています。

前454年、当初のペルシアの脅威に備えるための同盟の目的が後退した後、アテネはデロス同盟の金庫をデロス島からアテネに移し、同盟の年賦金を徴収し続けました。

将軍ペリクレスが推進した急進的な民主主義のもと、アテネ人は、その年賦金の一部を資金源とし、アテネのパルテノン神殿(前447〜前432年)を中心とする積極的な建築を行いました。アテネはギリシア文化の革新的な中心地として栄えました。

アテネの権力はスパルタとその同盟国(ペロポネソス同盟)への疑念を募らせ、アテネ・スパルタ両陣営はペロポネソス戦争(前431〜前404年)に突入しました。

アテネとコリントスとの紛争に端を発したこの戦争は、アテネを盟主とする「デロス同盟」とスパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」の争いというギリシア世界を二分する戦争へと発展していきました。

ペロポネソス戦争は、アテネの将軍ペリクレスの死(前429年)や疫病の蔓延、ペリクレス亡き後の好戦的なデーマゴーゴイ(民衆指導者)の指導などにより、最終的にスパルタの勝利で幕を閉じました。

スパルタは、やがてテーベを刺激し、テーベの将軍エパミノンダスは、レウクトラの戦い(前371年)でスパルタ軍に決定的な敗北を与えました。

テーベの支援により、メッセニアのスパルタ人奴隷(ヘロット)は解放され、厳重な城壁で防衛された新都市メッセネが再編成され、アルカディア諸都市によって反スパルタ同盟が創設され、またその首都を同じく新都市メガロポリスとすることで、ペロポネソスの地政学は大きく変化しました。