2 バッハ/グノーの『アヴェ・マリア』に挑戦

ピアノの練習を始める

二〇一六年頃には、もうほとんどピアノを弾けなくなってしまったので、私は次のような提案を泰子さんにしました。

「ねえ母さん。演奏会では弾けなくても、二人で楽しめればいいと思うんだ。どう思う?」と。

「私も、二人で演奏をしたくて結婚したのだから、できるならそうしたい」と、泰子さんも前向きな返事でした。

そこで二人で弾く曲は何がいいかと考え、最後のお弟子さんの発表会で選んだ、バッハの平均律クラヴィーア曲集第一番の前奏曲第一番ハ長調にしました。グノーがメロディーを付けた『アヴェ・マリア』は、チェロで弾けるからです。

お弟子さんと最後の発表会で一緒に弾いたので、なおさらいいと思いました。泰子さんは認知症になってから、二つのことが同時にできなくなってきていました。

でも、この曲は左右交互に弾くし、重音も最後だけだし、重音にしなくても何とかなると思いました。しかし、当時お弟子さんにレッスンしていたときは、この曲を自分では弾けていませんでした。

弾けるようになるだろうかと不安に思いつつ練習を始めました。音はわかっているのですが、実際に弾くとなるとそう簡単ではありません。ですから、ワンフレーズごとに何回も何回も繰り返し練習していきました。

しかし、そればかりでは嫌になってしまうので、次のフレーズにも挑戦しながら練習をしていきました。ある程度弾けるようになったら、次はチェロとの合わせです。

チェロと合わせると、どうしてもチェロにつられてしまい、なかなか合わせられませんでした。けれど、これは裏を返せば泰子さんが私の音を聞けている証拠でもありました。

 

【前回の記事を読む】認知症が変える日常生活。ある日はスパーで買ったものを忘れ、ある日は楽譜が読めない。

次回更新は9月27日(金)、18時の予定です。

 

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