長瀬 律

朝になり僕らが学校に出掛ける時間になっても、雪は降りやまない。玄関を出たとき、沙耶伽の家を訪ねる年配の男性と警察官に居合わせた。

「昭和署のものですが、こちらは、山内洋蔵さんのお宅ですか」

年配の男性が、私服の刑事さんだとわかった。

戸惑い口ごもる沙耶伽が答える前に、おふくろが家から飛びだしてきた。刑事さんの説明を聞いているとき、僕はある光景が頭に浮かんだ。

夏休みの昼下がりだったと思う。僕たちは友達と興正寺の境内で缶蹴りをして遊んでいた。その時、鐘楼(しょうろう)に登る長い石段の中ほどで、軍帽を被った着流し姿の軍人が、片足がない身体を松葉杖で支えて立っていた。

当時はまだ、戦争で手足を失った多くの傷痍軍人(しょういぐんじん)が八事の界隈にもいた。物乞いをする彼らは、大人たちから疎ましがられ敬遠されていた。憐れみを覚えた僕たちは、足元に置かれた飯盒(はんごう)の中にお金を入れた。その都度、傷痍軍人は無言で僕らに頭を下げた。

しかし、沙耶伽だけはお金を恵まなかった。僕がお金を渡そうとしたが彼女は拒んだ。

傷痍軍人が立っていた石段でおじさんは見つかった。

長い階段を転げ落ち、鉄製の手摺の支柱に頭をぶつけて亡くなっていた。見ていた者はなく、誰にも気づかれないままおじさんの身体には朝まで雪が降り積もった。沙耶伽は涙をこぼすことなく、ただ茫然と突然失われた父親の命の顛末を聞いていた。

まだ中学生の沙耶伽を遺体の検視に応じさせることは憚(はば)かられ、おふくろが代わりに警察署に出向いて亡骸を確認した。

おじさんの遺体に不審を抱く者はなく、事故死として扱われた。年末が押し迫る中、おじさんの葬儀は行われた。

参列者が少ないとても寂しいお葬式だった。冬にはめずらしく風の吹かない暖かく穏やかな日で、焼場の煙突から上がる煙が、おじさんの好きだった八事の空にまっすぐ上がってゆく。

告別式には芽衣おばさんも駆けつけてきた。

久しぶりに会った芽衣おばさんだったが、何を話したか覚えていない。沙耶伽を独りぼっちにしたおばさんに、非難めいた感情が僕にあったのかもしれない。