【前回の記事を読む】処女だった彼女は、僕に身を委ねてくれた。殺風景な六畳の和室、薄い布団に包まりながら、僕の胸に顔を伏せていた。 

長瀬 律

「あれって、大学に来た時着ていた服だよね」

ハンガーに吊るされたラベンダー色のサマーニットを眺めて僕は尋ねた。

「小樽を出るとき、お母さんが買ってくれたの。わたしの大事な服。ラッキーカラー」

彼女は青春期を過ごした小樽の町のことを語り始めた。

沙耶伽の口からほつほつと紡がれる小樽の街並みは、とてもロマンチックな箱庭のような町に思えた。

「その運河沿いを一緒に歩けたらいいね」

僕のたわいのない問いかけに、彼女は戸惑った。

「そうだね」

ひと時思いを巡らしてから沙耶伽はそう答えた。

その頃の僕は二人の時間が永遠だと思っていた。

沙耶伽が小樽に帰るとは微塵も考えていなかった。八事の歴史を紐解き終われば、ここにいる意味がなくなることに気づいていなかった。

とりとめのない話をしながら、僕たちは眠りに落ちた。

翌朝、水がシンクを叩く音で目が覚めた。僕より早く起きた沙耶伽が、初体験だった証しが残ったシーツを台所で洗っていた。

そんな台所に立つ沙耶伽の後ろ姿が、脳裏に焼き付いて今も離れない。

興正寺には何回も足を運んだ。

沙耶伽の研究の大半はこのお寺に費やされ、住職さんに何度も話を聴きに伺った。

住職さんも言い伝えられているお寺の歴史を丁寧に教えてくださった。

興正寺にはいろんな言い伝えが残されていた。お城から落ちるときの抜け穴があったとか、徳川の埋蔵金が隠されていたとか、そうした類の話は尽きない。

また不思議なスポットがいくつもあり、とある石碑の穴に手を入れると、手が濡れたか濡れなかったかで伊勢湾の潮の満ち引きがわかると言われた。

他にも水面に映る自分の姿で寿命や健康状態がわかると言い伝えられている古井戸もあった。僕は面白がって覗き込んだが、沙耶伽は頑なに拒んだ。

おじさんが亡くなった石段に差し掛かる。

沙耶伽は亡くなった鉄の支柱の前で手を合わせた。風化した支柱は、小豆色の塗装が剥げ落ち、ところどころ赤錆が浮かんでいた。

僕も並んで手を合わせた。二人は長い時間その場で合掌した。

石段を降りながら、ぽつりぽつりと彼女は言葉を選ぶように語り始めた。つるべ落としの黄昏が辺りを覆い始めていた。