【前回の記事を読む】僕は両手で抱きしめる。でも、彼女の手は僕の背中に回されない。不案の塵が、僕の心の中に澱(おり)となって溜まってゆく......

長瀬 律

僕は沙耶伽を失うことが怖かった。確信を持てない僕への愛と、いつか僕が父親を殺めたことに気づかれてしまうのではないかと、二つの不安に悩まされた。

「律」おやじが風呂から出た僕を呼んだ。

「飲むか?」

巨人ファンのおやじが野球を観ながらリビングでビールを飲んでいた。

「いや、いい」

「そうか。ところでおまえ。沙耶伽ちゃんとつき合っているのか?」

おやじらしいストーレートな訊ね方だった。どう答えようか躊躇したが、これだけ行き来しているのに誤魔化すのはおかしいと思った。

「うん」短く答えた。

「そうか。それなら父さんは嬉しいぞ。いい子だから律のお嫁さんになってくれるといいな」

おやじは笑いながら僕を見る。

「気が早すぎ」

そう言って僕はグラスを取り上げ、のどに流し込んだ。

親には公認されたが、バイト先では僕らのつき合いは秘密にしておいた。ただ幼馴染だったということだけは皆に話してあった。

そんな彼女に少し困ったことが起きていた。彼女に付きまとう男が現れたのだ。今で言うストーカー行為だ。

彼女が部屋に入るのを見計らいチャイムが鳴る。そしてドアを開けると、ケーキやら、お刺身やら、お好み焼きやらを差し入れして、何も言わずに帰って行くのだ。

ストーカーは沖田さんだった。

何かされるわけではないが、無下にもできず、どうしたらよいか沙耶伽から相談を受けた。

沖田さんは店の店長であり、僕の兄貴分だ。何かと気にかけて面倒を見てくれている人だ。僕にとっては、気が重たい問題だった。

閉店後に床にモップを掛けながら、沖田さんに誘いの声をかけた。

「今夜、久しぶりに『みよちゃん』に行きませんか」

「おう、ええで」

『みよちゃん』は八事から少し離れた所にある安価に飲める焼き鳥屋で、本来の屋号は『竹や』といった。腰の曲がったおばあちゃんが従業員で働いていて、店員さんやお客さんから「みよちゃん」と慕われていた。

いつからか沖田さんと僕の間では、店の名前は『竹や』ではなく『みよちゃん』になった。

一通り注文を済ませ、煙草を咥えた沖田さんが訊ねてきた。

「で、今日はなに?」

言い出しづらかったが、仕方なかった。