【前回の記事を読む】僕は両手で抱きしめる。でも、彼女の手は僕の背中に回されない。不案の塵が、僕の心の中に澱(おり)となって溜まってゆく......
長瀬 律
二
僕は沙耶伽を失うことが怖かった。確信を持てない僕への愛と、いつか僕が父親を殺めたことに気づかれてしまうのではないかと、二つの不安に悩まされた。
「律」おやじが風呂から出た僕を呼んだ。
「飲むか?」
巨人ファンのおやじが野球を観ながらリビングでビールを飲んでいた。
「いや、いい」
「そうか。ところでおまえ。沙耶伽ちゃんとつき合っているのか?」
おやじらしいストーレートな訊ね方だった。どう答えようか躊躇したが、これだけ行き来しているのに誤魔化すのはおかしいと思った。
「うん」短く答えた。
「そうか。それなら父さんは嬉しいぞ。いい子だから律のお嫁さんになってくれるといいな」
おやじは笑いながら僕を見る。
「気が早すぎ」
そう言って僕はグラスを取り上げ、のどに流し込んだ。
親には公認されたが、バイト先では僕らのつき合いは秘密にしておいた。ただ幼馴染だったということだけは皆に話してあった。
そんな彼女に少し困ったことが起きていた。彼女に付きまとう男が現れたのだ。今で言うストーカー行為だ。
彼女が部屋に入るのを見計らいチャイムが鳴る。そしてドアを開けると、ケーキやら、お刺身やら、お好み焼きやらを差し入れして、何も言わずに帰って行くのだ。
ストーカーは沖田さんだった。
何かされるわけではないが、無下にもできず、どうしたらよいか沙耶伽から相談を受けた。
沖田さんは店の店長であり、僕の兄貴分だ。何かと気にかけて面倒を見てくれている人だ。僕にとっては、気が重たい問題だった。
閉店後に床にモップを掛けながら、沖田さんに誘いの声をかけた。
「今夜、久しぶりに『みよちゃん』に行きませんか」
「おう、ええで」
『みよちゃん』は八事から少し離れた所にある安価に飲める焼き鳥屋で、本来の屋号は『竹や』といった。腰の曲がったおばあちゃんが従業員で働いていて、店員さんやお客さんから「みよちゃん」と慕われていた。
いつからか沖田さんと僕の間では、店の名前は『竹や』ではなく『みよちゃん』になった。
一通り注文を済ませ、煙草を咥えた沖田さんが訊ねてきた。
「で、今日はなに?」
言い出しづらかったが、仕方なかった。