沙耶伽は、芽衣おばさんが住む北海道に引き取られてゆくことになった。
二人が挨拶に訪れたのは、おじさんの初七日が終わった翌日だった。玄関口で涙を流しおばさんの手を握るおふくろの横で、僕たちは短い挨拶を交わした。
「元気で」
「律くんも」
それが僕と沙耶伽が中学一年の冬に起きた出来事だ。表情を変えず僕たちに頭を下げていた傷痍軍人の姿を思い浮かべながら、沙耶伽があの時口にした言葉を思い出す。
「わたしたちがお金を渡すのは間違いだと思う。子供のわたしたちからお金を恵まれたら、あの人は余計惨めな気持ちになる。相手の気持ちを考えない優しさは本当の優しさじゃない」
僕とは違う優しさのベクトルを沙耶伽は持っていた。沙耶伽の優しさの前では、お金を恵んだ行為が正しいと言い切る自信が僕にはなかった。
おじさんは事故死などではない。僕が石段から突き落としたのだ。小さい時からずっと見知っていたおじさんを僕が殺(あや)めた。何故あの時、背中を押してしまったのだろう。
その日から僕の心は鉛の鎖に縛られた。自分の犯した罪が、いつかばれてしまうのではないかと不安にさいなまれ、心が落ち着かない日々を過ごした。
ふと気づくと、僕が棲む世界とは違う、別の世界からおじさんに見つめられていた。
冬の夕暮れ時、空に雪もよいの重たい雲が垂れこめると、僕の身体は震え、吐き気を催した。
沙耶伽のいなくなった八事の町は、それから大きく変貌してゆく。
かって八事倶楽部と呼ばれ名古屋の財界人の社交場だった料亭が、広大な土地の一部を手放し大きなショッピングセンターが建てられた。
僕の家の前にも七階建てのマンションが建ち、その一階はスーパーマーケットになった。カートを押して豊富な品数の中から欲しい物を選びレジに並ぶ。今では当たり前の買い物のやり方が新鮮な時代だった。
山内家が営んでいた精肉屋さんのあった市場は、このスーパーの出現でどの店も商売が立ち行かなくなってしまう。一軒、また一軒と店は閉まり、櫛の歯が欠けたようになった市場は、やがて時代に淘汰され平地に変わった。
一度だけ沙耶伽から年賀状が届いた。年賀の挨拶と共に、簡単な近況が書かれていた。苗字が杉浦に変わっていたのは、芽衣おばさんの旧姓なのだろう。
返事は出さなかった。ただ、遠く離れて暮らし、二度と会うことのない沙耶伽が幸せであることを僕は願った。
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