第4章 一夫と泰子さんの生い立ち

3 私の生い立ち

家族会議全員賛成で早期退職に

そこで、今度は自分でNPO法人を作り、自宅で指導を始めることにしました。そのときの子どもたちへの対応は、のちのち介護で大変役に立つことになりました。

その後も私は、二〇〇七年、二〇〇八年、そして二〇一六年には二回も病気やけがで手術をすることになりましたが、そのたびに無事に回復してきました。

以前からPSA(前立腺特異抗原)値が高めで、何度も病変の一部を採って顕微鏡で詳しく調べる生検(生検組織検査)やMRI検査をしましたが、がんではないとの結果でした。

泰子さんの本格的な介護が始まって一年ほど経った二〇二〇年に、PSA値が三十を超えてしまいました。そこで、がん研究会有明病院を紹介してもらい、再度生検をしたところ、前立腺がんと診断されました。

泰子さんの介護のことがあるので、手術ではなく五日間で終わる強度変調放射線治療をお願いし、その間泰子さんはショートステイにお願いしました。お陰でスムーズに治療ができました。その後も転移もなく順調です。

4 泰子さんの生い立ち

父親が歌の伴奏をさせたくて

泰子さんは、兄の通敬がピアノを習っていたので一緒にピアノを習い始めました。そして八歳になったときに、福岡で有名な先生について本格的に習い始めました。

父親の博之は、歌を歌うのが好きで、よくドイツリートを歌っていたので、泰子さんにその伴奏をさせたかったのです。そのため念願の娘の伴奏で歌が歌えて、とても喜んでいました。私たちの結婚式でも歌っていました。

また父親は阿蘇山が大好きで、よく家族みんなで登っていました。泰子さんは、兄の後をちょこちょこついて歩いていました。絵を書くのも好きで、我が家の玄関に掲げてある絵は、父親が描いた阿蘇山の絵です。

泰子さんが健脚なのは、山登りをしていたからかもしれません。父親は、仕事の関係で九州の各地を転勤していました。泰子さんはそのたびに学校が変わっていたので、友達がなかなかできなかったそうです。

ピアノのレッスンは福岡なので、高速バスで通っていました。そのため担任の先生が、そのときは掃除を免除してくれていたそうです。高速バスの中は、今と違って禁煙ではなかったので、タバコの臭いや煙で辛かったと言っていました。