序章 せっちゃん(私)について

海外での生活

アルゼンチンでは、タンゴ発祥地のボエドのマンション(有名なタンゴダンサーが所有)で5か月暮らしました。

スペイン語のクラスに通ったり、ムービートラックで外国人8名と一緒にチリを訪れ、なかなか見ることのできない塩湖やマイマラという貧しい村を訪れたりしました。それが一番二人にとって忘れがたいアルゼンチンでの思い出となりました。

しかし、ここで生活していくうちに、私は保夫さんの異変にはっきりと気づきました。あんなに方向感覚がいいのに、よく迷うのです。犬の散歩に一人で出る時は、無事帰ってこれるのかと本当に心配したものです。

ある日、私にエアメールのスペルを尋ねた時は、さすがに血の気の引く思いがしました。正式な長期アルゼンチン滞在許可を手にした時には、私はすでに日本帰国を決意していました。

私には双極性障害があり、ハイの状態で細かく大変な手続きを大急ぎで済ますと、急降下のうつ状態に陥りました。息子達に相談もせずに、ボスと保夫さんを連れて一目散に日本に帰国しました。その大変なこと。私は口もきけず、言葉もろくに出ず、げっそりやつれていました。

帰国、介護生活と再出発

保夫さんの実家のある那須塩原市には新築に近い私達の持ち家があるので、何とかなるだろうとの思いで、帰国しました。

いろいろあって、そこにはすぐ住むことはできませんでしたが、その間、宇都宮の獨協医科大学病院で保夫さんの検査をしてもらい、結果、軽度認知障害(MCI)と診断されました。

新幹線通勤で、保夫さんは元同僚達と東京の外資系銀行で働くことになり、張り切っていました。私の状態はあまり良くならず、再び犬を連れて懐かしいアメリカの我が家に戻りました。

次男が、私の不調や変化(新車を購入しても、嬉しがらず、あまり乗ろうともしないなど)を気にして保夫さんに何度も連絡してくれたおかげで、保夫さんの上司が2か月休暇をくれて、私を東京に呼び戻すように計らってくれました。労働条件の契約書まで作ってくれました。