序章 せっちゃん(私)について

保夫さんとの出会いと結婚生活

彼は栃木県黒磯市(現在の那須塩原市)から就職のため一人で上京し、知人のいない東京に出て生活していたため、十分な栄養が取れず、働きながら通っていた夜間の大学の体育のクラスで貧血を起こしたことがあります。

デートの時は、手作りの栄養満点のお弁当を持参して、肩が凝ると言っていた保夫さんの肩をもんだりしたことを懐かしく思い出します。

そういえば、保夫さんが一人で生活していた時、息子の生活の様子を見に来たお義母さんが「保夫、帰ろう、帰ろう」と言って、参ったなあと振り返っていました。

私は、高校時代にアメリカンフィールドサービス(AFS)でアメリカに一年間留学したいと言った時、父が返事に窮していたのを思い出します。その時の父の気持ちが後になってよーくわかるようになりました。

1973年(昭和48年)10月、田渕保夫(26歳)と私(28歳になったばかり)は、麻布グリーン会館で結婚式を挙げました。

保夫さんは港区高輪に一人で住んでいたので、結婚後は、まずはそこで暮らしました。台所のガスコンロは一つ、お風呂は銭湯という生活でしたが、事務所で使うような大きなクーラーがあったのが救いでした。

私が上智大学の国際部同窓会の仕事につくと、千代田区番町のお屋敷の離れに住むようになりました。保夫さんもアメリカ銀行東京支店勤務が始まりました。

長男を身ごもった時、保夫さんの勤務先で海外転勤になった方がいて、その方の日本の持ち家に住んでみないかとの誘いがあったので、三鷹市大沢の一軒家で半年ほど暮らしました。

三鷹に住んでいる時に、池ノ上産婦人科で出産しましたが、30歳の高齢ということもあり、36時間近くかかる難産でした。もうお産はこりごりと思ったものです。

育児は寮母をしている母に手伝ってもらいました。子どもをおんぶしてよく母の所へ出かけたものです。家の持ち主が急に帰国するということで、妹一家の空部屋になっている江東区のマンションに引っ越しました。そしてアメリカ銀行の融資を受けて、1年後に千葉県市川市にマンションを購入することができました。

そこで次男を身ごもり、聖路加国際病院で出産しました。3650グラムという大きい子でしたので、これまた難産でした。

大きな私の叫ぶ声が、廊下を挟んだ隣の部屋まで届いたそうです。市川市のマンションに5年ほど住むと、私の母とも同居できるようにと願って、浦安市の一軒家に移りました。長男7歳、次男2歳でした。

そこで結婚10周年を迎え、友人や保夫さんの銀行仲間を呼んだり、また、別の機会に上智大学のニッセル神父様の還暦祝いも兼ねて上智大の仲間とお祝いをしました。