【前回の記事を読む】受験戦争もいじめもないアメリカの教育によって二人の息子は大きく成長していった

第2章 充実したアメリカ生活
―息子達の学校生活、夫の仕事と私達の生活、社交ダンスとの出会いからアルゼンチンタンゴへ

カリフォルニアでの息子達の学校生活とアメリカの教育(渡米後約8年)
―1995年9月

長男は中学校に入るとブレイクしてクラスの人気者でした。歴史の先生に可愛がってもらい、学校が楽しくて一日も休むことなく通いました。

その後保夫さんは東京支店派遣のため4年で東京に戻り、長男は全寮制の高校に一人残ることになりました。

ですが、幸運なことに保夫さんはサンフランシスコの本店から永住権を取らないかと勧められ、私達家族は1年半の東京滞在の後、再びサンフランシスコ・ベイエリアに戻ることができました。

ただ、その頃の日本はちょうどバブルの時代で、長男の住む寮の近くの有名なゴルフコースを日本人が買収するという話もあり、「日本人は帰れ」と言われるなど、息子にとっては試練の多い、辛い高校生活でもありました。

高校卒業後については、歌が得意で音楽大学から奨学金のオファーがあったり、音楽でバンク・オブ・アメリカ賞をいただいたり、絵描きにならないかと勧められたりしましたが、本人はコックになりたいとも迷っていて、進路が定まらないようでした。

結局、上智大学と関連のあるサンフランシスコの丘の上にある大学に入学し、インターナショナルビジネスを専攻しました。大学では「ジャパンクラブ」を結成して、他の日本人との交流も図りました。

渡米当時、サンフランシスコ市内の日本人補習校に通わせて、日本に戻ることも考えていましたが、先生が体罰を行うのを見て、嫌だと感じた長男は数回通っただけで、登校を拒否しました。それで、次男も拒否。

正直言って、私達夫婦は日本で運転していなかったので、市内にある補習校へ通うため遠方へのドライブがなくなり、ほっとしました。それに息子達はスポーツが得意で、友人達と遊ぶためにも補習校に通っていてはできません。

長男は6年生まで日本での教育を受けていたので、後は自助努力で日本語をマスターしています。もちろん家庭では日本語で会話をし、一年に一度は夏休みを利用して日本に帰ることにしていました。