【前回の記事を読む】初めての米国滞在に苦しんだ息子達。英語で話しかけられるのを怖がり、外出を嫌がり、毎日の派手な兄弟げんかに、次男の軽い登校拒否。

第2章 充実したアメリカ生活
―息子達の学校生活、夫の仕事と私達の生活、社交ダンスとの出会いからアルゼンチンタンゴへ

カリフォルニアでの息子達の学校生活とアメリカの教育

(渡米後約8年) ―1995年9月

小学校6年生の長男と小学校1年生の次男が学校生活を送ったラフィエット市は、バートと呼ばれている電車でサンフランシスコから40分、中産階級の多い理想的な環境のため、カリフォルニアでも屈指の公立学校のある地域です。

私は息子達が通った小学校の1年生の国語(すなわち英語)のクラスで週1回2時間、担任のお手伝いを6年半の間続けています。

次男の元担任で、ハワイ生まれの日系三世と結婚しているミセス・ヨシオカ(アメリカでは先生と呼ばず、名前の前に Mr. Mrs. をつけます)は、小柄な白人で、全く日本語がわかりません。

教室にある本棚にPET(親業講座)やT.E.T.(『教師学講座―効果的な教師=生徒関係の確立』トマス・ゴードン著、小学館、1985年)の本があるので尋ねてみると、教会で親業講座を開いていた経験があるそうです。

そんな関係もあり、親しみと尊敬の気持ちをもってお手伝いができたことは、私にとって日本とカリフォルニアでの教育の仕方の違いを知る良い機会になりました。

ラフィエット市の小学校のすぐ裏手にあるプール付きの一軒家に住み始めたのは、今から8年前の夏休みでした。9月になってアメリカの学校が始まると、息子2人はそれぞれ1年生、6年生として入学しました。

6年生の長男は親しい友達と別れてきたのが辛く、「どうしてこんな所に連れてきたのだヨー」と地団駄を踏んで私を困らせました。

しかし、学校が始まって2週間ぐらいたったちょうど私の誕生日に「お母さん、僕こっちの学校好きだ。連れてきてくれてありがとう」と言ってくれたことを今でもはっきりと覚えています。

言葉はわからなくても、「Are you O.K?」と尋ねてくれ、何かと気配りしてくれる様子がわかるようです。それでも、心のプレッシャーは大変なもので、しばらくは微熱を出しながらの生活でした(かく言う私も便秘と円形脱毛症に悩まされていました)。

カリフォルニアでは大幅な教育予算の削減がありました。しかし、息子達のように英語が第二外国語で、英語教育を必要とする生徒がいない小学校では、リーディングの担当の先生が毎朝15分程度時間を割いて、個人的に面倒を見てくれていました。