海外での生活

浦安市の新居に5年ほど住んだ後、バンク・オブ・アメリカサンフランシスコ本店勤務の話が持ち上がりました。1987年7月4日、アメリカ独立記念日に保夫さんは本店勤務を果たし、家族でアメリカに引っ越すことになりました。

家族が、新しい環境や“外国人”に慣れて周囲にスムーズに溶け込めるまではいろいろ大変でしたが、それは通らなければならない道で、今は懐かしく思い出しています。

生活に慣れてきた頃、コミュニティーを通じて「社交ダンス」に出会い、「バイセンテクラブ」という名門社交ダンスクラブの会員になることができました。その後次第に、そのクラブの仲間の4カップルと一緒にアルゼンチンタンゴに移行していきました。

タンゴは一度はまると抜け出せなくなるほど魅力的と言われていますが、私達もそれから10年近く、タンゴを楽しむことになりました。

1998年、バンク・オブ・アメリカがネーションズ・バンクと合併することになり、当時大問題になりました。世界一大きな銀行がたいして大きくもない銀行にまんまとだまされたというのが私の認識です。

本店勤務の人達は一掃され、保夫さんもサンフランシスコが本店のユニオン・バンクに仲間と一緒に勤務することになりました。

仕事内容も次第に大きく変わり、企業分析(企業の信用調査)の仕事から仲間内を監視するような監査の仕事に移っていきました。今まで手助けしてくれていた女性上司とも別れなければならなくなり、心理的にも限界を感じて、退職したいと私に訴えました。

これからどうする?と話し合い、保夫さんの希望で、翻訳をしながら訪れたことのあるアルゼンチンで、タンゴを楽しみながら暮らすということになりました。

タンゴの先生方の推薦状をもらったり、現地のコネを探したりして大変でしたが、保夫さんの気持ちは変わりませんでした。タンゴ仲間は送別会を開いてくれました。

保夫さんは2度目、私は3度目のブエノスアイレスへの旅立ちでした。愛犬ボスを連れての旅でしたので、飛行時間がとても長く、長時間おしっこのできなかったボス君が、地上に降りるとびっくりするくらい長い間片足をあげていたのを思い出します。

【前回の記事を読む】娘の目に映る父の姿。優秀な両親の期待を背負い大学へ進学するも…

 

【イチオシ記事】「気がつくべきだった」アプリで知り合った男を信じた結果…

【注目記事】四十歳を過ぎてもマイホームも持たない団地妻になっているとは思わなかった…想像していたのは左ハンドルの高級車に乗って名門小学校に子供を送り迎えしている自分だった