第1章 帰国、介護生活と再出発

「手鍋提げても」の結婚生活スタート ―1973年10月18日

結婚して最初の住まいは港区高輪でした。以来保夫さんが亡くなるまで16回の引っ越しがありました。

当初暮らしていた港区高輪清正公前の家はお風呂がなくて、調理コンロは一つという狭~い所でした。銭湯ではいつも待ち合わせていました。今は跡形もなく、ビルが建っています。

保夫さんが明治学院大学社会学部を卒業した時、就職先のお世話を頼みに、私の父の親友を二人で訪ねました。英語が得意で海外勤務もオーケーと伝えると、アメリカ銀行東京支店を紹介してくださいました。いつかサンフランシスコの本店で働けたらと二人の夢は膨らんでいました。

私は結婚前、客室乗務員の頃、サンフランシスコが大好きでした。アメリカ銀行の本店ビルは、映画『タワーリング・インフェルノ』(当時珍しかった、高層ビルの火事を扱った1974年の米作品)の撮影現場になりました。

それを見上げて、こんな素敵なビルに勤める人の奥さんになれたら素敵だなーと思っていたのです。十数年後、それが現実になるとは何とも不思議な運命です。

当時の私は四谷の上智大学の国際広報部で今は亡きニッセル神父様の下、アルムナイ(同窓会)の仕事をしていました。

具体的には、主に、国際部の資金集め目的でインターナショナルボール(舞踏会)を開くため、タイやフィリピンの大使館と連絡を取る仕事をしていました。

保夫さんは上智大学に勤める私を気遣い住まいを探してくれました。そして、千代田区番町の議員さんの屋敷の一角にあるお風呂のついた離れの一室に、ちょうど運よく移り住むことができたのです。

入行後の保夫さんは実力が認められ、世界中の同じ銀行仲間と一緒にフィリピンのバギオ、タイのバンコクで、ハーバード大学教授の研修を東京支店代表で受けていました。

また、家のローンの配慮を特別にしてもらったので、千葉県市川市南行徳のマンションに5年住み、その後浦安市の戸建てに移り住むことができました。家のすぐ近くにあるテーマパークを訪れては息子達と終日遊び回り、幸せで満足な家庭生活を送っていました。

話は少しさかのぼりますが、三鷹に住んで母の所に通っていた頃、生まれたばかりの長男をおんぶしながら、近くの本屋さんで子育ての本を片っ端から手にし、その中の大妻女子大学教授の平井信義先生の子育て論に深い感銘を受けていました。

そして、日経新聞や朝日新聞で度々紹介される、今は亡き平井信義先生が顧問の「親業(おやぎょう)訓練協会」に出会い、そのインストラクターになりました。

渡米直前には、NHK番組『おはようジャーナル』、自民党女性局機関誌『りぶる』の取材を受けました。

そこで長男は、「お母さんは親業訓練講座を受けるようになってからとても変わった」と語っていました。私は、当時とてもはやっていたTVゲームを家ではさせなかったのですが、話し合ってルールを決めてから「許す」ようになりました。