第一章 東京 赤い車の女

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図書館の前の噴水から水しぶきが上がっている。青い水玉模様の水泳帽を被った男の子がキャッキャッ言いながら母親と水遊びをしている。水はそれほど高くまで上がらず水量も多くはない。

ユミは噴水に近づいて顔を少し上に向けた。水しぶきの一部がかかるのだろうか、目を冥っている。僕は後ろからそっと近寄って肩を抱くようにした。

目を開けたユミが「座ろう」と言ったので、そこからまっすぐ図書館に向かい、石でできた長くて豪勢な階段に並んで腰かけた。十段ある階段の上から三段目、少し西に傾きかけた太陽のせいで北向きの階段の一部に斜めの影ができていて、僕らはそれを利用した。

「この階段、十段あるんだ」

「最初の二年間は駒場のキャンパスが本拠地だけど、この図書館にはずいぶん通い詰めたから、けっこう詳しいんだ」と僕は言う。

「どうして図書館に通い詰めたの?」とユミが訊くので、僕はすべての事を話した。

「最初から医学部に行けばよかったのに」と、ユミはいつものように普通に言って、あの涼やかな目で僕を見つめた。

黒すぎない大きな瞳、何も信じない、何も疑わない目。

僕はその瞳をちゃんと、しっかりと見つめた。顔を寄せるとユミの瞳孔は大きく開いて、周囲に黒と金の線状の模様が無数に広がりキラキラ輝いていた。それらはあたかも瞳孔から放射された生き物のように濡れていて、息をのむほど美しい。僕は今確かにユミの中に入ったと感じた。

最初から東大の医学部に行ける者は普通の人間ではないということ。この国のその年の全新入生の不動のトップ百以内だということ。僕はそれほどすごい人間ではないということを、その瞳をジッと見つめながらユミに伝えた。

ユミは一度瞬きをし、顔を少し斜めにずらして僕の唇に唇を重ねた。

目を瞑ってじっとしているユミはとても良い匂いがした。いつもとまるで違うユミを、僕はそっと、柄にもなく、壊れないようなやり方で、とても優しく抱きしめた。