其の弐
一
六月の東京は蒸し蒸しとして暑かった。黙っているだけで身体中がじっとりと汗ばみ、ビルの谷間に降り注ぐ陽射しは既に夏のものだった。見渡す限り人々の姿で溢れ、どの角を曲がってもビルの絶壁が聳えていた。辺りには排気ガスの匂いが充満し、エンジンの唸りや警笛の響きが騒めきとなって耳を圧迫した。
骸骨がここへ来て既に一月が過ぎようとしていた。東京の第一印象は夥しい数の人の群れ、ビル街そして車の列に尽きた。だが今ではそれに人々の驚くべき無関心をつけ加える必要があるだろう。
今日も骸骨は茫然として人の波に呑まれていた。新しい仕事、新しい生活を求めてここへやってきたのに、それは見つかる気配もなかった。ここにはあらゆる物が溢れ、あらゆる種類の人が蠢いていた。だがそれは骸骨にとって蜃気楼に等しかった。
あらゆる物があるということは何もないのと同じだった。あらゆる類いの人々がいるということは誰もいないのに等しかった。
東京にはどんな仕事でもあると聞いていた。だがそれはどのように探せばよいのだろう。誰かを呼び止め、どこへ行けば仕事にありつけるのか訊いてみたかった。だがどちらを向いても、誰の顔を見つめても視線の合うことはなかった。
「モシモシ」と誰彼かまわず声をかけてみても、皆ちらと視線を動かすだけで脇を擦り抜けていく。ごく稀に親切な人もいたが、そうした人たちも、「ハローワークに行けばいい」と言うだけだった。ハローワークとは何なのか、それはどこにあるのか、誰もそこまでは教えてくれなかったのである。
骸骨はこうして毎日新宿駅の周りでうろうろしていた。初めの頃は山手線に乗って都内をぐるぐる巡ってみた。だが見渡す限りのビル街で何も判らなかった。次いでいくつか路線を選んで都内を縦割り横割りしてみた。
だがビルの大きさが小振りになったくらいの違いしかなかった。どこまで行ってもコンクリートの乾いた壁が高く聳えていた。はとバスに乗ってみればどうだろうとも思ったのだが、観光に来た訳ではないのだ。
ふと大抵の物は駅前に揃っているものだと気づき、それで新宿を選んで根城にした。そうしてもう半月ばかり駅の周囲を探しているのだが、ハローワークというものは見つからなかったのである。
この日も新宿から目白台、目白台から山吹町、矢来町そして市ケ谷を経て信濃町まで足を伸ばしてみた。どこも忙しく働く人々で溢れているのに、何の手がかりも得られなかった。この半月で詳しくなったのは新宿区の地理くらいのものだった。
何のことはない、準備不足だったのだ。本当はもっと下調べをしてからのつもりでいたのだが、伊藤医師に炙り出されるようにして出て来たから仕方がなかった。そう思うと、あののっぺりとした顔が浮かんできたが、別に腹を立てるでもなかった。
今まで人に悪意というものを抱いたことがなかったのだ。その一方では善意もまたないのかも知れなかったが。