家の敷地が道路より低かったため土台を高くし、屋根は翼のように左右対称に広げ、二階がその真ん中にちょこんと乗っかっていて、「まるで、飛行機のようだ」と近所の人が噂していたそうです。
「いよいよ、新居での生活が始まる!」と思っていたら、思いもよらないハプニング! 近くの病院に職員宿舎として貸していたため立ち退きが間に合わず、すぐに入居できなかったのです。
結局、名立町にある母の実家にお世話になり、姉と私は電車で直江津へ、母は反対方向の能生町(のうまち)へ、父は直江津からさらに三十分ほど行った塚町安(やすづかまち)へ通うことになりました。
母の実家は海岸沿いの小泊(こどまり)地区にあり、駅にも近く便利なところでした。海岸は岩場が多く海水浴には不向きでしたが、イカや甘エビや、幻魚(げんげ)という珍しい魚もとれ、漁業が盛んでした。
母が女学生の頃は、夏休みになると海に潜って海藻や貝を採り、それを売って得たお金を学費にあてていたそうです。
祖父(母の父)が国鉄に勤めていたため、ときどき線路工事の人たちが泊まることもあったようです。そんなときは祖母が、歌の上手い母に、
「きくちゃ(母のこと)、一曲歌ってやんない!(やりなさい)」と言って、母が自慢の喉を披露したそうです。
祖父は私が生まれるずっと以前に亡くなり、祖母も私が生まれた半年後に亡くなりました。
四十八歳で母を産んだ祖母は、母が二十八歳で私を産んだときには七十六歳になっていたわけですから、体力的にも衰えていたのかも知れませんが、母があるときポツンと一言。
【前回の記事を読む】母とは対照的に穏やかだった父 ささやかな思い出を支える父のやさしさ