『この世における人々の命は、定まったすがたなく、どれだけ生きられるかわからない。 いたましく、短くて、苦悩をともなっている。』(スッタニパータ 574)
『見よ。他の生きている人々は、また自分の作った業(ごう)に従って死んで行く。彼ら生あるものどもは死に捕らえられて、この世でふるえ、おののいている。 』(スッタニパータ 587)
『たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、ついには親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。』(スッタニパータ 589)
『生あるものには死がある。手足を切断され、殺され、捕縛されるわざわいもある。生あるものは苦しみに会う。』(テーリーガーター 191)
「生」とは、単に「生まれること」ではなく、「生きるという行為」の始まり(生まれ)と継続を意味し、そこには「苦」が伴っているといえます。
「生まれること」という「生」の意味について
従来の十二支縁起では、「生」は「生まれること」と訳されてきました。
「生まれることによって、老いと死がある」という従来の十二支縁起の説明から、「赤ん坊として生まれて、やがて老いて死ぬ」という常識的な縁起のことだと解釈したのだと思われます。
「生まれることによって、老死がある」という語りは、もともとは「無明(自我)が生まれることによって老死の苦がある」ということを意味していたのだと思われます。
赤ん坊として生まれることは、「老いと死の苦」に対する直接的な原因とはなりません。なぜなら、赤ん坊として生まれたとしても、まだ「自分」という意識もなければ、「老い」や「死」という概念についての意識さえないからです。