「それでは、お願いする。確かに老剣殿は、お連れいたした」使者はそう言うと、老剣にも頭を下げる。

「道中、ご無事で」そう、老剣にささやいた。

道中とは。老剣が怪訝な顔をすると、使者は会釈して背を向けると、宮殿の階段を降りる。微かに哀れみの表情が浮かんでいた。

老剣は僧の顔を見るが、もう正面を向いて歩き始めている。僧の言葉には僅かに訛りがある。海を渡ってきた律を伝える僧かもしれない、そう思った。

老剣は、頭を上げた。十年前、次の大王である日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)となった皇子は、まだ微かに昔の少年の頃の面影もあった。今はすっかり大王を補佐する堂々の皇子となっている。

「ご無沙汰いたしております」

老剣の言葉に、厩戸皇子(うまやどのみこ)も笑顔で頷いた。

「老剣。いや、私にとっては昔通りの龍剣(りゅうけん)だ。変わりないな、うれしく思います」はっ、と老剣も頭を下げる。

剣龍という名も、十年、いやそれ以上耳にしていない。まだ都で武術師範をしていたときの名だ。龍派の師範役を退き、その名も返上して老剣と呼ばれるようになった。かつての武術の弟子たちは、海を渡っての戦や、敵味方に分かれての豪族間の争いで失われていった。そんな思いが、一瞬、頭の中を駆け巡る。

老剣は顔を上げた。

「それで、この老い耄れに、何のご用が」

老剣の言葉に、傍らにいた護衛の兵が気色ばんだ。

「無礼だぞ。皇子様に」厩戸皇子は笑っている。

「かまわん。昔通り。私と龍剣のことだ。おまえたちは下がりなさい」躊躇している彼らに「案じるな。それに龍剣は、剣は無くとも、おまえたちより腕は確かだ。今、敵が来ようとも、よほど安心だ」

そう言ってもう一度笑うと、彼らを下がらせた。皇子の前には老剣と、案内してきた僧だけが残っている。

「そう、その隋使の従者殿を紹介しよう。こちらは法広殿」皇子に紹介されると、法広は深く頭を下げた。

「見ての通りです。洛陽の仏僧でございます」老剣も頷く。

「つい先日、海を渡って来られた。隋使の裴世清殿と一緒に。今日、龍剣を呼んだのも他でもない。この法広殿にも関わることです」

老剣は頸を傾げる。自分と洛陽の僧と。何の関係が。法広は、こちらを見て穏やかな笑顔を浮かべている。

「皇子様、遅くなりまして」

遅れて若い男が入ってきた。

「親父殿がうるさくてね」

気さくに厩戸皇子に話しかける。皇子が、男を座らせた。

「この前話した、龍派の龍剣殿」

皇子が早速、男に老剣を紹介する。

「龍剣、名前は知っているだろう。これは蘇我英子(そがのえいし)」

老剣は頭を下げる。

 

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