ベッドに横たわり、手術に必要な検査を進めるその時「いや、待ってください! お腹に赤ちゃんがいます! 手術は延期です。できません!」ドクターが叫び、その言葉に驚きとうれしさとさまざまな感情を抱いた母のお腹にいたのが私です。

誰しも同じことが言えるのは、この世に生を受けること、生まれることを当たり前と思ってはいけないのです。私が無事にこの世に生まれてくることができた昭和50年代前半。

当時はオイルショック後ということもあり、紙おむつは貴重品でした。それでもすでに三種の神器である「冷蔵庫」「洗濯機」「テレビ」は各家庭にほぼあったけれど、電話はファックスも留守番電話もない黒電話の時代。

着信音は今のような電子音ではなく、ジリジリジリ!とけたたましいベルの音を鳴らしたて、庭にいようが少し離れた場所でもその着信音に驚き慌てて電話にかけより、電話を受け取るそんな時代を過ごしてきました。

エアコンもクーラーもない時代で、夏は扇風機にあたりながらかき氷を食べて風鈴の音にしばしの癒しを感じながら夕暮れは打ち水をして涼を求め、虫網と虫かごを持って走り回り、木陰で秘密基地ごっこもしました。

「お母さんと喧嘩したら家出をして、ここで過ごせるようにオヤツも隠して置いておこうよ」

などと、本気で一日暮らせる秘密基地を小学校2年生の頃に作ったのも今では遠い思い出。

その場所は友達の家の裏庭でした。冬はガスストーブの上でお餅や干し芋を焼いて食べるのが幸せでした。

今のような便利家電はなくても家族が一つの部屋に集まり、団らんをしていたあの時代、今のような核家族化が少しずつ進むも、母親は家庭にいる家もまだまだ多く、今のように子どもの孤食や孤立からは縁遠い最後の時代だったと思います。

モノがない時代だったので、そこにあるものを利用して遊びに興じました。遊びも常に創意工夫の連続でした。ズボンに通すゴム紐を親から少し分けてもらい、女子はゴム段遊びも流行りました。

大繩を回すように、ゴムを2人でピンと張り、さまざまな高さに合わせたところで、飛び手が飛ぶ。走り高跳びのゴムバージョンというのがイメージとして近いでしょうか?

缶ジュースの空き缶を見つければ缶蹴りをしたり、使えるモノが見つからなければ「色鬼」や、「だるまさんが転んだ」で遊んだり、とにかく夕暮れの5時の鐘が鳴るまで遊びに全力を注いでいました。

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