琉球と明の朝貢関係

洪武(こうぶ)五(一三七二)年、琉球が明に入貢してその臣下となる(『明実録(みんじつろく)』:歴代の明朝廷によって編纂された歴史書)。

明王朝の華夷秩序下に組み込まれた琉球は、その支援を受けて、タイからマラッカ海峡周辺諸国を広域に結ぶ中継貿易の拠点として発展し、王朝国家を形成するまでになる。

明が朝貢貿易の相手として琉球に目を付けたのは、本命の日本が明の望む形での冊封体制(華夷秩序下)に参入しなかったことと、倭寇(わこう)による被害を極力減らすためでもあったと考えられる。 

琉球を仲介して本命の日本と交易するために、まず琉球を倭寇と結ばせないように華夷秩序体制に組み込んだ後にできるだけの支援を実施している。

明の洪武帝(こうぶてい)は当時周辺国と原則三年毎の朝貢を契約していたが、琉球に対してのみは「朝貢不時」としていつでも可能であるとして最大の優遇処置をとっている(皇明祖訓(こうめいそくん)による:洪武帝によって編纂された子供への訓戒集)。

明から琉球に下賜された船舶は三十隻にも達し、修理や初期の運行も明側で行っている。交易ルートも泉州、福州、寧波(ねいは)、瑞安(ずいあん)のいずれでも可能として制限されなかった。

この処遇は、今日の国際通商条約の基本である最恵国待遇を超えた特別待遇であり、朝貢制度の特徴とも言える。

もしも今日、二国間でこのような特別の通商関係をもったとしたら、その他の諸国が黙っていないだろう。しかし朝貢制度下においてはこうした柔軟性が許されていて、このことが朝貢制度の最大の特徴でもあった。

すなわち朝貢制度は相手に応じて目こぼしや、えこひいきが可能だったのである。現在の中国がWTOなどの規約を守らないのもうなずけるのである。現在の中国も、交易国に対してこの手法を用いて自由主義経済圏に挑戦する意図を持っていると考えられる。

ところが、明王朝の後ろ盾を得て商業に専念でき、文治優先主義の国家であった琉球が、薩摩の支配下にあった奄美大島を征伐して支配下におくのである。

その理由は、おそらく奄美大島が倭寇の基地であったのか、あるいは今後基地化される可能性があるとして、明の指令によって服属させたと考えられる。今日にすれば、対艦ミサイルや防空監視レーダーを配備される可能性があるとして、中国から侵攻されるようなものだ。

室町時代に中国の舟山群島の寧波において、大内氏と細川氏の遣明船同士の争いが起こる。それに伴って明と日本との交易が一時中断した際、明は琉球を介して日本に書状を送って交易を再開させている。その際、足利義晴が琉球に対して礼状を送っている。

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